「殴り合うコミュニケーション」についての、私から説く最後の文です。トラックバックをいただいた場合は、続きますけど。
自問はタイトルの通り、私=鏡は「殴り合う人々」か?というものです。
- 2007年03月19日 : 殴り合うコミュニケーション
- 2007年03月20日 : 殴り合う人々
- 2007年03月22日 : 殴り合わない人々
- 2007年03月25日 : なぜ殴り合わないのか
- 2007年03月31日 : 殴り合うゲームプレイ
- 2007年03月31日 : 殴り合わないゲームプレイ
- 2007年04月04日 : 殴り合う卓上RPG論
- 2007年04月09日 : 高圧的なのは、殺し合うコミュニケーション
- 2007年04月11日 : やるかやらないか、だけが重要
- 2007年04月11日 : 余論 : 和をもって貴しとなす
- 2007年04月14日 : 本当は皆できる、そして反省会は楽しい
- 2007年04月16日 : 反省の意味と、殴り合う反省会
- 2007年04月16日 : やる/やらないの区別と、「論」
- 2007年04月29日 : 余論 : 殴り合う心理
- 2007年05月07日 : 余論 : 殴り合わない「いじめ」
- 2007年05月07日 : 鏡は「殴り合う人々」か?
「殴り合うコミュニケーション」についての、私から説く最後の文です。トラックバックをいただいた場合は、続きますけど。
自問はタイトルの通り、私=鏡は「殴り合う人々」か?というものです。
最後の余論。いわゆる「いじめ」の中には「殴り合うコミュニケーション」が見られない、という話です。
第二の余論は心理学。素人の生兵法なりに、「殴り合うコミュニケーション」の背景心理について考えてみます。詳しい方からのご意見を大歓迎。
結論は、「殴り合う」ためには自己肯定が必要で、自己否定そして「自我肥大」に陥った者には難しい、ということです。
紙魚砂さんとアキトさんのお考えを伺うに、なるほど「反省会」についての認識には差異があるようですね。
ここで私の考えもまとめておきます。「成功も失敗も無いセッション」における反省会についても後述します。
アキトさんのお返事に感謝します。ひとつ気長にお付き合い願います。
まず「できる/できない」について、私の考えを示し直します。ややこしいですけれど。
ここからは余談ならぬ余論です。三本組の予定。
聖徳太子の憲法十七条は、「和をもって貴しとなす」から始まります。日本人なら誰もがこの文句を知っているでしょうから、「殴り合う」などとんでもない、と思われる方がいるかも知れません。第一の余論として、この条文が「殴り合うコミュニケーション」を否定するものなのか、考えてみます。
「うすくちゲーマのTRPGラクガキ帖」のアキトさんからトラックバックをいただきました。有難うございます。
結論から言うと私は、やるかやらないかだけが重要、と考えております。やらない間はできるかできないかは決して証明されず、しかし一回でもやれば、できることは明白になるのですから。以下は各論。
自分の正直な意見を示し、異なる意見と闘わせることが、「殴り合うコミュニケーション」です。「殴り合う人々」はそれを楽しみ、「殴り合わない人々」は忌避します。卓上RPGのような遊戯についてであっても、それは変わりません。卓上RPGに関する論考や議論などを巡って、「殴り合う人々」と「殴り合わない人々」との姿勢の違いは、三つの点で明確に表れます。