08 「自由」に遊ぶ 実践篇

このカテゴリーでは、卓上RPGを「自由に遊ぶ」ための実践法について語ってまいります。語るに先立ち、その概略を記します。

まず、「自由に遊ぶ」ことで得られる楽しみ、喜びについて示します。これこそが「自由に遊ぶ」ことの目的であり、これを望まないなら「自由に遊ぶ」意義はありません。

「自由に遊ぶ」楽しみとは、卓を囲む仲間たちと相互いに積極的に働きかけ、「自分たちの物語」を作っていく一瞬一瞬を味わうことです。できあがった結果ではなく、それを創り上げていく過程を楽しむのです。

「自由に遊ぶ」ために参加者全員が認めておくべき三つの心得、その第一は「自由に遊ぶ」ゲームプレイは「リプレイとは違う」ということです。

「自由に遊ぶ」ための心得の第二は、「プレイヤーが主人公」ということ。「キャラクターが主人公」なのではなく、「プレイヤーが主人公」なのです。

「自由に遊ぶ」ための三つの心得、最後は「ロールプレイは不要」ということです。「ロールプレイングゲーム」なのに「ロールプレイは不要」、とは奇妙に思われるでしょう。

「自由に遊ぶ」ことの八つの手順、その第一では「自由に遊ぶ」ために用いる卓上RPGシステムを選びます。手順2「仲間を集める」と順序が入れ替わることもあります。

第二の手順では、一緒に遊ぶ仲間を集めます。手順1「ゲームを選ぶ」と順序が入れ替わることもあります。

ここまでで、誰(仲間)が何(ゲームシステム)をどのように(自由に)遊ぶか、が決まりました。

第三の手順では、(ゲームマスターを含む)プレイヤーが遊ぶための「駒」としてのキャラクター(ゲーム内の登場人物)を作成します。手順4「シナリオを作る」とは順不同、並行して行われることもあります。

第四の手順では、「プレイヤーの遊び場」としてのシナリオ(個別のゲームプレイに登場する設定群)を作成します。手順3「キャラクターを作る」とは順不同、並行して行われることもあります。

シナリオと各々が担当するキャラクターとが用意できたなら、いよいよゲームプレイ本編です。ここからの四つの手順では、「自由に遊ぶ」ゲームプレイの進行例を示します。

第五の手順は、ゲームプレイの始まり。仲間同士が集まって卓を囲み、挨拶を交わした後は、次のようにしてプレイを始めます。

第六の手順は、ゲームプレイの続き。プレイヤーが最初の行動を示したなら、次のような手続きが始まります。

第七の手順は、ゲームプレイの終わり。卓上RPGのゲームプレイには、二種類の終わり方があります。ひとつは「シナリオの終わり」、もうひとつは「セッションの終わり」です。

「自由に遊ぶ」ことの最後の手順は、ゲームプレイを反省会で締めくくることです。私がお勧めする反省会の流れは、次の通り。

「八つの手順」まで書き終わりましたので、今後は従来通りトラックバックをいただいた方にお返事を申し上げます。

まず、過去にacceleratorさんから二件、xenothさんから一件いただいた、計三件につき返答させていただきます。

acceleratorさんとにゃあさんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

Googleの件は別途書きましたので、それ以外についてお返事いたします。

gginc(高橋志臣)さんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

結論から言いますと、私が語った論旨について(項目1)は概ね正確に読み取っていただいているようですが、その意義等について(2と3)は真逆の評価をなさっているようです。何故そうなるかと言えば、卓上RPGの全体像、その歴史的経緯についての見解が、ggincさんと私とで異なっているためと思われます。

xenothさんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

と、有り難くは思うものの、xenothさんの主張が何なのか正直よく分かりません。「コストパフォーマンスの悪い行動をする自由など無い」と仰りたいのでしょうか?その「コストパフォーマンス」というのも、xenothさんが価値があると思うか否か、で判断されているようですが。

gginc(高橋志臣)さんからいただいたご意見について、トラックバックはいただけませんでしたが、簡略にお返事させていただきます。(※3月17日現在、トラックバックをいただいたことを確認しました。有難うございました。)

  • 3者の誰も欠けることがない〈ゲームコンセプト〉尊重の精神 (ggincさん、GOD AND GOLEM, Inc. -annex A-)

私は「進行管理」を否定しているのではありません。その対照概念である「自由」について語っているのです。「A」ではない「非A」を示すのが、「A」の否定では無いように。そうして「自由」を復興、復権させて、「自由」と「管理」とが選択肢として併存することを望んでいます。

「自由に遊ぶ」ゲームプレイの位置づけを示すため、論考を二本示します。一つめは、卓上RPGの面白さを、喩えとして適当であるかはともかくとして、「理系」「文系」「体育系」の三種に分類するものです。

xenothさんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

語に厳密を期すなら、「自由はあっても現実的には不可能」「自由はあっても事実上不可能」という状況はありません。

ただし「自由があるのでやってみたら失敗した」とか「自由はあっても難しそうなのでやらなかった」という状況なら、あります。

もし本当に「不可能」なことなら、それを行う「自由」はありません。「1億円のマンション」の購入は可能なこと。

xenothさんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

「行動の自由」の行使には「コスト」がある、ということなら異論ありません。柔軟に対応してくださり、感謝いたします。

「コストの定義」に示された数式については、分からなくなったら質問しますので、どうぞよろしくお願いします。

「自由に遊ぶ」ゲームプレイの位置づけを明らかにする二つめの論考では、卓上RPGへの接し方を、野球に喩えつつ、分類します。

卓上RPGに対してその遊び手がどのように接するか、その多様性を理解するにはゲーム経験の量ではなく幅が必要です。その体験差を埋めるために、ここでは「野球を楽しむ」という別の行為を例にとって説明します。大項目は三つ。

  1. 野球に参戦
  2. 野球を観戦
  3. 野球の物語

acceleratorさんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

「個人的エピソード」の件、私も気がつきませんで、恐縮です。そういうことでしたら、私自身のプレイ歴というか、その内容の変遷のため、と説明できます。

xenothさんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

xenothさんの考える「コスト概念」「リターン概念」「リスク概念」について、概ね了解しました。

ただ、例に登場する「Bさん」ら他のプレイヤーが「観客」のようであるのが気になります。最終的な「コスト」評価は、状況の変化にどう対処するかによって変わる、と考えます。そこで、例として考える範囲を、もう少し広げていただきたいと思います。

高橋志臣(gginc)さんと玄兎さんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

先に結論。「反省会」という名称使用へのご忠告には感謝しますが、これを変えることには意義を感じません。

玄兎さんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

説明の拙さを反省し、再度の説明を申し上げます。「他人を褒めることを強要する」から「自由に遊ぶ」ゲームプレイに向かないわけではないのです。

どうにかして具体像を示すべく、今回から「自由に遊ぶ」ゲームプレイに向いたシナリオの作成例と運用例とを示してまいります。まずは「ダンジョンシナリオ」を取り上げ、その作成について考えてみます。

玄兎さんからいただいたトラックバックへのお返事です。長らくお付き合いいただきまして、深謝いたします。

「反省会」関係について、玄兎さんの仰る通り「自己評価を絶対的な物差しとして、向上は自省によってのみ促される」というご理解で結構です。「自分が面白いと思う」ように遊ぶことに「向上」があるか、はともかくとして。

「老人は酒場の他の客に聞こえないよう、声を細めて話し始めた。
『あの丘の下には、呪わしい魔術師が築いた地下要塞があるという。魔術師の財宝目当てに入って、生きて帰った者はおらん。月のない闇夜には恐ろしい魔物が地下から抜け出して人を襲うため、人身御供を出そうという村もあるのじゃ…』と。
さぁ、どうする?」
ゲームマスター「その通路を進むと、突き当りで左右に分かれている。(…中略…)判定は成功?では、左の通路へ向かって、何かを引きずったような新しい傷が床にあることに気付いたよ。どれくらいの重さかは、この成功度では分からない。さぁ、どうする?」
プレイヤーA「右へ行こう」
プレイヤーB「いや、左へ行こうよ」
ゲームマスター「...といった宝を見つけたよ。」
プレイヤーB「ふぅ、戦闘きつかったけど、見合うだけの収穫はあったね。」
プレイヤーC「部屋の奥はどうなっていたんだっけ。」
ゲームマスター「通路が続いているよ。ここまでの通路より少し幅が広いようだ。」
プレイヤーA「宝はそれなりに手に入れたし、もう帰らないか?」
プレイヤーB「え、もうちょっと行こうよ。魔物も宝もまだありそうだし。」
プレイヤーC「こっちは体力的に不安があるなぁ。」
プレイヤーD「...ところで、あと1時間でプレイ終了時刻なんですけど。」
ゲームマスター「じゃあ、残り時間で反省会をやろう。」

ここで、「自由なダンジョン」とは本質的に異なる、「管理されたダンジョン」について触れておきます。「自由なダンジョン」が「遊び場」であるのに対し、「管理されたダンジョン」とは「最も面白い」ゲームプレイを共有するための「作品」のようなものです。

ダンジョンの次は、野外を主たる舞台とした「ワイルダネス(ウィルダネス)・シナリオ」にて、「自由なゲームプレイ」の運用を考えてみます。例えば、次のようなシナリオ「自由な森」。

辺境に広がる未開の大森林。移動を妨げる山谷は無いが、密集する木々のため外から内部を伺い知ることはできない。この森のどこかに古城の遺跡があると言う。誰も辿り着いたもののない城の奥には、古代の秘密が眠っている...かも知れない。

ダンジョン、ワイルダネスと来たら、最後は「シティ・アドベンチャー」。戦闘行為が公然としては認められていない街中などで、専ら情報収集のための行動を楽しむものです。近現代を舞台とするゲームシステムでは、しばしば基本となる設定です。

その中でも特に、推理小説風の謎解きを扱う「ミステリー・シナリオ」の運用について考えてみます。シナリオの中心となる事件が、殺人、盗難、誘拐、脅迫など、どんなものであれ、「自由なミステリー」は次のような構成となります。

水無月冬弥さんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

題名では「ありえない」ですが、内容は「やりたくない」という趣旨になっていますね。それはともかく、以下お返事。

「自由なミステリーを遊ぶ」に4名の方からトラックバックをいただきました。有難うございます。長らくお待たせして恐縮ですが、お返事は近日中に書き込む予定です。

さて、それに先立ち今回は、玄兎さんからの三つのご質問にお答えいたします。

  • [Question] 「制限」と「管理」 (玄兎さん、ペテン師の戯言。)
  • まず、「制限」と「管理」との定義の確認から。

    「自由なミステリーを遊ぶ」に対して、水無月冬弥さん、acceleratorさん、玄兎さん、Betaさんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

    長文になりましたので各位へのお返事は別書込とし、今回は「ミステリーシナリオ」についての私の考えを示します。どう考えたが故に、「自由なミステリー」がありえるのか、という話です。

    随分と時間を掛けてしまいましたが、「自由なミステリーを遊ぶ」にトラックバックをいただいた、水無月冬弥さん、acceleratorさん、玄兎さん、Betaさんの四氏に、改めて御礼申し上げると共に、お返事を記します。

    まず、「自由」「管理」「制限」といった語について理解され難いところが見えてまいりましたので、その辺を踏まえて、これらの定義を再度示します。表現を分かり易くすると、一部例外が無視されてしまいますけど。

    xenothさんと水無月冬弥さんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

    xenothさんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

    他の参加者に配慮するか否かは、各人の資質によるものであって、「自由に遊ぶ」か「管理して遊ぶ」かとは関係がありません。配慮する者は「自由」でも「管理」でも配慮しますし、逆もまた然り。...しかしながら、その上で。

    水無月冬弥さんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

    水無月さんからのご指定通り、魔獣戦線RPGのプレイログから「DB-223 蒼雪騎」を拝読。良質なプレイを楽しく読ませていただきました。以下、このプレイが「自由」か「管理」か等について、私なりの分析を示します。

    結論から申し上げますと、「蒼雪騎」プレイは「管理して遊ぶゲームプレイ」であり、その「自由度」は「中くらい」です。

    玄兎さんからトラックバックをいただいてから、随分時間がたってしまいました。御礼とお詫びを申し上げます。取り合えずトラックバックをいただいた記事は次の通り。

    上記二件の間にも、「自由」と「管理」について多くの記事を書いていただきました。網羅的にお返事を差し上げるには考察と執筆が追い付きませんので、重要と思われる論点についてのみ記すこととします。ここでは、自分の説明不足を痛感した「誘導」について。

    「誘導」に引き続き今回は、やはり説明不足らしい「制限」について記します。

    そもそも「制限」という語を用いたのは、「自由に遊ぶゲームプレイ」が「無制限な自由」を求めるものではないことを説明するためです。キャラクターの行動は、プレイヤーが自分で「自由に」考えて決めることができますが、ルールシステムや世界設定によって「制限」される、ということです。

    遅くなりましたが、xenothさんからいただいたトラックバックに御礼申し上げ、それへのお返事を記します。

    第一に、xenothさんが示された下記三段階は、私が考えるものと異なります。

    水無月冬弥さんからいただいたトラックバックへのお返事です。意見交換を楽しませていただき、感謝しております。

    分かろうと努めながら「分からない」を連発せざるを得ないこと、お気の毒に思います。それでも、私が「分からせてあげる」のではなく、水無月さんが「分かる」かどうかなのですから、頑張ってください。アドバイスとして、水無月さんは諦めるのが早過ぎるようなので、もう少し粘って(数日間)考えると良いでしょう。もっとも、論考の背景に類似する経験が足りなければ、どうしても理解できないこともありますが。

    さて、順番にお答えしてまいります。

    今回は、カテゴリー「自由に遊ぶ 実践篇」で当初予定されていた、最後から二番目の論考。「自己管理」について語ります。

    「自由に遊ぶゲームプレイ」におけるプレイヤーには、ダンジョンシナリオなのにダンジョンに入らない、謎解きなのに謎を解かない、といった「極端な自由」までも認められています。しかしながら実際の「自由に遊ぶゲームプレイ」では、プレイヤーがそのような「極端な自由」を行使することはほとんどありません。いわば「そこそこ自由なゲームプレイ」に収まるのです。

    このような「そこそこ自由なゲームプレイ」は、参加者各々による「自己管理」によって成立します。

    ようやく本カテゴリーで当初に予定されていた最後の論考まで辿り着きました。「自由」と「管理」とが混在している状況では、どう遊べば良いか、という話。

    私が考える「自由に遊ぶゲームプレイ」と「管理して/されて遊ぶゲームプレイ」とは、うまく混ぜ合わされば良いところ取りができる、というものではありません。これら本来「混ざらない」遊び方を、無理に、あるいは無意識に「混ざるようにして」遊んでしまった場合には、ゲームプレイに問題を生じます。これらの問題を避けるために、一連の論考の締めくくりとして「混在」に関する下記三点について語ります。

    1. 「自由に遊ぶゲームプレイ」と「管理して遊ぶゲームプレイ」とは、なぜ「混ざらない」のか。
    2. 両者を「混ぜるようにして」遊ぶと、どのような問題が生じるのか。
    3. 「混ぜるようにして」遊ぶことで生じる問題を、どのようにすれば回避できるか。

    まず、xenothさんからトラックバックをいただいたことに御礼と、そして返事が大変遅くなりましたことにお詫びを申し上げます。サーバートラブル等もありましたが、一月以上も経ってしまいました。

    さて、上記記事を拝読し、xenothさんと私とではゲームプレイの参加者が「面白い」と感じることについての考え方が異なっている、と判断しました。xenothさんの文中に、次の一節があります。

    水無月冬弥さんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

    まず、長らくお付き合いいただきましたことに感謝申し上げます。「分からない」でも「つまらない」でも、とにかく興味をもって読んでもらえることが大切ですから。また、頂戴した種々のアドバイスは有難く、今後の執筆活動への参考とさせていただきます。

    xenothさんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

    ダンジョンに入るか否か等のシナリオ設定から、突如「嫌悪感を与える描写」に話題が変わって、実のところ困惑しました。果たして同列に論じて良いこ問題なのか?と、じっくり考えてみましたが...。

    同列に論じて良い問題ですね。「察する心」については後述するとして、まずはお返事。

    トラックバック(0)

    トラックバックURL: http://www.rpgjapan.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/193

    RPG日本

    アーカイブ