- 2007年03月19日 01:02 : 殴り合うコミュニケーション
- 2007年03月20日 22:20 : 殴り合う人々
- 2007年03月22日 21:46 : 殴り合わない人々
- 2007年03月25日 23:14 : なぜ殴り合わないのか
- 2007年03月31日 00:52 : 殴り合うゲームプレイ
- 2007年03月31日 23:36 : 殴り合わないゲームプレイ
- 2007年04月04日 23:47 : 殴り合う卓上RPG論
- 2007年04月09日 23:28 : 高圧的なのは、殺し合うコミュニケーション
- 2007年04月11日 22:01 : やるかやらないか、だけが重要
- 2007年04月11日 22:26 : 余論 : 和をもって貴しとなす
- 2007年04月14日 23:29 : 本当は皆できる、そして反省会は楽しい
- 2007年04月16日 22:17 : 反省の意味と、殴り合う反省会
- 2007年04月16日 22:38 : やる/やらないの区別と、「論」
- 2007年04月29日 00:41 : 余論 : 殴り合う心理
- 2007年05月07日 00:21 : 余論 : 殴り合わない「いじめ」
- 2007年05月07日 22:43 : 鏡は「殴り合う人々」か?
04 殴り合うコミュニケーション
卓上RPGに限らず、「コミュニケーション」(言語による意思伝達)は重要な行為です。この「コミュニケーション」を、ここではその仲の良さ/悪さ、あるいは優しさ/厳しさで三段階に分け、次のように称します。1が最も親密、3が最も殺伐としたものです。
- 睦び合うコミュニケーション
- 殴り合うコミュニケーション
- 殺し合うコミュニケーション
「殴りあわない人々」について説く前に、健全な方について詳しく書いておきます。「殴り合う人々」とはちょっと物騒ですが、要は、「睦び合う」「殴り合う」「殺し合う」の三つのコミュニケーションをすべて知っていて、状況に応じて使い分けられる者のことです。いつでも「殴り合う」ことができる、ということであって、いつも殴り合っているわけではありません。
「殴り合わない人々」とは、「殴り合うコミュニケーション」を行わない者のことです。彼らには、「睦び合う」か「殺し合う」かという両極端な二つのコミュニケーションしかありません。「殴り合えない人々」とも言えます。
「殴り合う人々」は日々気軽に「殴り合う」のに、「殴り合わない人々」はそうではありません。知識の差、後者が議論やケンカ(口喧嘩)などの「殴り合うコミュニケーション」をまったく知らないため、とは考えられません。現実に社会はそれらで満ちており、様々なメディアがそれを知らしめているのですから、仮にあったとしても至極稀でしょう。「殴り合う」ことを知ってはいるけれど、自分の行動としてそれを選択しないわけです。
「殴り合うコミュニケーション」の有無は、卓上RPGのプレイにも影響を及ぼします。仲間と「殴り合う」ことを抵抗無く楽しめる者と、何らかの理由で「殴り合う」ことができない者とでは、「好ましい」と思う遊び方が異なってくるのです。
「殴り合うゲームプレイ」では「睦び合う」のも「殴り合う」のも楽しまれます。対して「殴り合わないゲームプレイ」では、「睦び合う」ことは楽しまれますが、「殴り合う」方は選択できません。
自分の正直な意見を示し、異なる意見と闘わせることが、「殴り合うコミュニケーション」です。「殴り合う人々」はそれを楽しみ、「殴り合わない人々」は忌避します。卓上RPGのような遊戯についてであっても、それは変わりません。卓上RPGに関する論考や議論などを巡って、「殴り合う人々」と「殴り合わない人々」との姿勢の違いは、三つの点で明確に表れます。
「うすくちゲーマのTRPGラクガキ帖」のアキトさんからトラックバックをいただきました。有難うございます。
結論から言うと私は、やるかやらないかだけが重要、と考えております。やらない間はできるかできないかは決して証明されず、しかし一回でもやれば、できることは明白になるのですから。以下は各論。
ここからは余談ならぬ余論です。三本組の予定。
聖徳太子の憲法十七条は、「和をもって貴しとなす」から始まります。日本人なら誰もがこの文句を知っているでしょうから、「殴り合う」などとんでもない、と思われる方がいるかも知れません。第一の余論として、この条文が「殴り合うコミュニケーション」を否定するものなのか、考えてみます。
アキトさんのお返事に感謝します。ひとつ気長にお付き合い願います。
まず「できる/できない」について、私の考えを示し直します。ややこしいですけれど。
紙魚砂さんとアキトさんのお考えを伺うに、なるほど「反省会」についての認識には差異があるようですね。
- 紙魚砂的反省会?のやり方 (紙魚砂さん)
- 反省会のイメージ (アキトさん)
ここで私の考えもまとめておきます。「成功も失敗も無いセッション」における反省会についても後述します。
第二の余論は心理学。素人の生兵法なりに、「殴り合うコミュニケーション」の背景心理について考えてみます。詳しい方からのご意見を大歓迎。
結論は、「殴り合う」ためには自己肯定が必要で、自己否定そして「自我肥大」に陥った者には難しい、ということです。
最後の余論。いわゆる「いじめ」の中には「殴り合うコミュニケーション」が見られない、という話です。
「殴り合うコミュニケーション」についての、私から説く最後の文です。トラックバックをいただいた場合は、続きますけど。
自問はタイトルの通り、私=鏡は「殴り合う人々」か?というものです。
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