卓上RPGの「収束型プレイ」と「拡散型プレイ」 (2004年執筆)
本論考は、2004年6月17日に発表されたものです。文中の趣旨が、現在の筆者の考察とは異なる場合もありますので、ご注意願います。
日本における卓上RPGの「進化」と、もうひとつの可能性
はじめに:卓上RPGの「楽しさ」とは何か
かつて私は「正しいRPG」という論考で、「参加者全員が楽しみ、満足することを、プレイにおいて最優先とするもの」が「正しいRPG」である、とした。しかし、その後も体験と考察を重ねた結果、何を「楽しさ」とするか、何に「満足」するかで異なる解釈があることに気づいた。本論考ではこの視点から、卓上RPGのゲームプレイを大きく二つの型に整理してみた。
なお、この論考に度々出てくる「ゲームマスター主導」「プレイヤー主導」という語については、「卓上RPGプレイにおける「マスター主導型」と「プレイヤー主導型」」を参照されたい。「ゲームマスター主導」と「マスター主導」とが同じものである。
要約
- 「収束型プレイ」とは、参加者全員の協力によって、完成度の高いプレイを展開させることを目指すものである。「ゲームマスター主導」で行うのに向いている。
- 「拡散型プレイ」とは、参加者各々の発想を活かしたプレイを行い、その一瞬一瞬を楽しもうとするものである。「プレイヤー主導」で行うのに向いている。
- 現在の日本では「収束型プレイ」が主流であるが、両型とも理解し、事前に参加者間で確認し合うことで、どちらであっても楽しめるようにするのがよい。
卓上RPGの「宿命」
卓上RPGとは、「複数の参加者が集まり、各々の発想を交え合わせつつ遊ぶ」遊戯である。各人の発想が自由奔放なものであれば、ゲーム内で展開する物語は誰にとっても収拾のつかないものとなる。「自由」(freedom)と「収拾」(control)は相反するものなのである。これは、卓上RPGの「宿命」ともいえる本質的な特性である。
ここで考え方は二つに分かれる。即ち、「自由」を選ぶか、「収拾」を選ぶか、である。
この選択はそのゲームプレイの中で何を目指すかによって自律的に決められるべきであるが、日本ではプレイ環境によって他律的に現在の趨勢が定まった感がある。そこでまず、日本におけるプレイ環境が及ぼした影響について考えておきたい。
日本におけるRPGの「進化」
最初期の卓上RPGの遊ばれ方は、後述する「拡散型プレイ」に近いものであった、と私は推測している。このことについて本論考では多くを語らないが、少なくとも日本ではそれとは異なる独自の「進化」がなされることとなった。グループSNEやFEARなど日本のRPGデザイナーたちが携わったこの「進化」はプレイ環境の特徴に起因するものであり、特に影響の大きかったものとして次の三つが考えられる。
- 遊ぶ場所と、時間制限
時間や空間の制限(騒音などの問題も含む)を感じずゲームプレイに没頭することは、日本の一般家庭においては困難である。このため、初期から公民館等の一室を借りての「コンベンション」という集会が開催、利用されるようになっていた。一般家庭でもそうであるが、公共の施設を借りる場合はそれ以上に、プレイ時間の制限とその厳守が要求される。また、なるべく長い時間楽しみたいという欲求も自然とあるため、「予定時間通りにゲームプレイを収めることが良いこと」という認識が生まれることとなった。- リプレイと物語的完結性
「リプレイ」に見られる執筆形式は、ゲームプレイの例を示すものとして生まれたものである。その形式を用い、ゲームプレイが物語的に完結するまでの全編を著した「リプレイ」は、RPGの教本としてもさることながら、小説のような読み物の一種としても愛されることとなった。しかしながら、物語として完結するリプレイを手本とする内に、「RPGは物語的に完結して当たり前」という認識も生じることとなった。- コンベンションと、見知らぬプレイ相手
日本で一般的になった「コンベンション」におけるゲームプレイでは、以前からの友人ではなく、見知らぬ相手とゲームプレイを共にすることが多い。慎重に人間関係を築くに足る時間は無く、また一度プレイした相手と二度と出会わない可能性も多いため、「ゲームプレイをするためだけに相手がいる」という関係となりやすい。このような環境下で、相手に関する理解や信頼関係などが無くとも「誰とでもゲームプレイを楽しめるべき」と期待されるようになった。これら三点から、「どのような相手とでも、決まった時間内に、物語的に完結したゲームプレイ」が期待されるようになり、個々のゲームプレイやゲームシステムの評価基準となっていった、と私は考えている。そして、その期待に応えて生まれたのが「収束型プレイ」である。
「収束型プレイ」とは何か
発想が「自由」だと「収拾」がつかない。ならば、「参加者の自由を制限することで収拾をつけよう」と考えて生まれたのが「収束型プレイ」である。ゲームプレイ上で展開する物語を、全員の協力によって一定の幅に「収束」させようとすることから、この名称を用いることとした。
「収束型プレイ」では、シナリオの中に「理想的な展開」があり、そしてプレイをそこに「収束」させうる展開の「幅」があるものと、すべての参加者が認識することになる。この「幅」の広さはゲームマスターの腕前によって決まるが、その内にプレイの展開を収めることが肝要となる。端的には、各シナリオ内で「理想的な展開」を実現するためにプレイヤーがPCを介して「なすべきこと」があり、そこから大きく逸脱しないように参加者全員が協力するのである。「なすべきこと」に抵触しない範囲内で、プレイヤーには自由なキャラクター表現が認められているが、もし逸脱した場合はゲームマスターによる軌道修正が必要となる。そうして「理想的な展開」への「収束」を成功させることで、ゲームプレイは完成度の高いものとして成立し、その結果に参加者全員が満足するのである。逆に、プレイヤーの逸脱がゲームマスターの修正能力を超えてしまった場合には、「収束」は失敗し、すべての努力は無に帰すのである。
このような「収束型プレイ」は、「ゲームマスター主導」で行われることが多い。ゲームマスターは「なすべきこと」をプレイヤーに速やかかつ明確に伝達する。プレイヤーは余計なことをせずに「なすべきこと」が提示されるのを待ち、その実行に乗り出すのである。これを「プレイヤー主導」でやることは不可能ではないが、困難である。シナリオの収束する方向性や、「なすべきこと」を、プレイヤー側が積極的に見つけだそうとするのである。しかし、どうしても見つけられない場合や、見つかったと思っても実は見当違いであったなら、収拾がつかない事態=失敗となる。
「収束型プレイ」の種類
「収束型プレイ」は、逸脱を避けるための工夫によって「修正収束型プレイ」と「指定収束型プレイ」とに分けられる。
「修正収束型プレイ」とは、ゲームプレイが逸脱しそうになった場合、プレイ外での指摘やプレイ内での誘導などによって、収束可能な「幅」に展開を戻そうとするものである。例えば、情報の予期せぬ解釈から、プレイヤーがシナリオ上の想定と異なる目的地へ向ったとしよう。この時、ゲームマスターが情報の再整理を促したり、ゲーム内でそれを補正する別の情報が提供されたりするものが、この型に当たる。
「指定収束型プレイ」は、ゲームプレイが始まる前に、「理想的な展開」の手掛かりをプレイヤーに与え、協力を促すものである。例えば、シナリオの主要登場人物(NPC)とPCとの人間関係や、PCの背景設定などをゲームマスター側から指定するなどの手法が用いられる。
なお、両者の併用も可能である。
「収束型プレイ」のための工夫
FEARなどの長年の貢献により、「収束型プレイ」のための工夫は数多く開発され、普及している。その中から幾つかを簡単に紹介してみよう。
「ミッション成功」という概念もまた「理想的な展開」へプレイヤーを導くための工夫と考えられるが、ある意味、それを更に完成させたものが「セッション成功」という概念である。
「セッション成功」と、その対立概念である「セッション失敗/崩壊」とは、各々「参加者全員が協力して目指すべきもの」「参加者全員が避けねばならないもの」として提示された概念である。ただし、字義通りの"セッションの成功"とは異なる概念と捉えた方が分かり易い。即ち、プレイが「理想的な展開」となり「収拾をつける」ことに「成功」することを「セッション成功」と呼び、それを全員で目指そう、という約束事のようなものである。対する「セッション失敗/崩壊」とは、プレイヤーの逸脱がゲームマスターの処理能力を超えたために「理想的な展開」に「収束」させることができなくなった状態を指す。「成功」や「失敗」「崩壊」といった表現を背景に、逸脱の元となる「個々人の楽しさ」よりも、「全員の成功」のために一致協力させるための工夫である。
「理想的な展開」を成立させるための、シナリオとPCとの関係は、しばしば(PCの)「立ち位置」と呼ばれる。これをプレイ前に伝えるための工夫が、「ハンドアウト」「今回予告」などである。「ハンドアウト」とは、あらかじめゲームマスターがPCとシナリオとの関係を決めておき、その中からひとつを選ばせるものである。これによりプレイヤーは間違いなくPCの「立ち位置」を得ることができる。「今回予告」は、シナリオのクライマックスなどを物語の一場面のようにしてプレイ前に伝えるものである。これによりプレイヤーは「理想的な展開」の少なくとも一端をあらかじめ知ることができ、それに協力し易くなるのである。
「場面(シーン)」という概念は卓上RPGの初期からあったが、それを用いて「ゲームマスター主導」を円滑に行えるようにしたのが、(FEARが言うところの)「シーン制」である。「場面」の作成や、PCとNPC双方の登場・退場など、「シーン制」ではすべてゲームマスターに絶対的な権限が与えられている。『キャッスル・ファルケンシュタイン』における「シーン」と比較すれば、その傾向を理解することができよう。そしてこのゲームマスターが決めた「シーン」の連続と、それに従ってそこに登場するPCは、シナリオの「理想的な展開」を実現するのに極めて適している。逸脱の危険のある「シーン」作成や登場/退場などをプレイヤーが求めたとしても、ゲームマスターは「シーン制」の一環としてそれを拒否できるし、逆に成立させなくては都合の悪い「シーン」にPCを強制的に登場させたり、あるいはNPCだけの「シーン」とすることもできるからである。
この他、不確定要素を減らすための工夫もルールシステム内に数多く見られるが、ここでは省略する。これらの工夫は「収束型プレイ」を成立させるために実に理に適ったものである。これらを開発したデザイナー諸氏に対して、私は尊敬の念に絶えない。
もうひとつの「進化」の可能性
次に示す「拡散型プレイ」とは、単なる「先祖がえり」ではなく、「収束型プレイ」を生む「進化」の中で切り落とされた諸要素を鏡が再整理したものである。「収束型プレイ」に対する批判的考察と、それ以前の古い要素の再評価とから生まれた「新しいRPG」と言ってよいだろう。
「拡散型プレイ」とは何か
「拡散型プレイ」では、発想が「自由」だと「収拾」がつかないなら、収拾がつかないことを楽しもう、と考える。ゲームプレイ上で展開する物語は、参加者各々の発想によってどこまでも「拡散」しうることから、この名称を採用した。
「拡散型プレイ」においては、シナリオで「ありえる展開」こそ想定されるが、そこに「収束」させようという努力は一切なされない。プレイヤーがPCを介して「なすべきこと」は何もなく、ゲームプレイ内の状況に対してPCを介して「やりたいこと」をやるのみである。ゲームマスターの労力は、単にプレイヤーの発想に応対することにのみ用いられる。つまりは「何をやっても良い」「何をするのも自由」なのである。しかしながら、その状況を最大限「楽しむ」ためには、プレイ内の状況や登場人物、他のPCを最大限利用する必要がある。他の参加者に相手をしてもらうためには、相手がそうし易いように工夫しなくてはならないのであって、全面的に「自由」であるからこそ、その「自由」をどう活かすかの責任は各個人に課せられるのである。また、ここでは「楽しむ」ことも各個人の自由であり、責任となる。完成度の高い物語などが保障されるわけはないので、プレイ中の一瞬一瞬に自ら「楽しさ」を勝ち得なくてはならない。
「拡散型プレイ」は、主として「プレイヤー主導」で行われる。ゲームマスターが示す舞台世界の中で、プレイヤーは自由に行動し、それに応じてゲームマスターは状況を変化させる。その単純な繰り返しである。「拡散型プレイ」を「ゲームマスター主導」でやるのも不可能ではないが、困難である。PCの設定や行動を受けてからシナリオを作成するプレイがそれに当たる。これをコンベンションなどで即興で行うと、いわゆる「フルアドリブ・プレイ」となる。上手くいっている限りは、プレイヤーの側から両者は区別し難いかもしれない。
「拡散型プレイ」の種類
「拡散型プレイ」は、ゲームプレイを続ける条件をつけるか否かで、「制限拡散型プレイ」と「無限拡散型プレイ」とに分類できる。
「制限拡散型プレイ」では、ゲームプレイ続行の条件が、舞台世界内での時間範囲や空間範囲、プレイの傾向、PCの行動の制限などの形で定められる。それを逸脱した場合、プレイは終了となる。例えば、「満月の夜までの一週間が過ぎたら終了とする」「舞台となる町から出たら終了とする」「PCが敵の撲滅を諦めたら終了とする」など。ゲームマスターはその範囲内である限り、プレイヤーに対応し続けることとなる。
それに対して「無限拡散型プレイ」は、プレイヤーが如何なる行為をPCにさせたとしても、ゲームマスターはそれに対応するというものである。十年経過しようが、外国へ行こうが、ホラーがコメディに替わろうが、PCが悪の手先になろうが、参加者の希望のある限り、プレイは続いていく。
なお、上記のいずれにおいても、プレイ時間の扱いは別問題となる。プレイ時間が来たら途中でも終わりとすべきか、プレイの切りの良いところに時間を融通(延長もしくは短縮)させられるかは、プレイ環境や参加者の合意で決められるであろう。
「拡散型プレイ」のための工夫
「拡散型プレイ」のための工夫は、初期の、また海外のRPG作品の中に見出すことができる。
サイコロによってPCの行動結果が変わる「行為判定のランダム性」は、「拡散」に向いている仕組である。特に、「自動成功」ではなく、期待以上の良い効果を得る「大成功」としての「クリティカル」や、「自動失敗」ではなく、予想外の悪い結果を引き起こす「大失敗」としての「ファンブル」は、プレイ展開の予期せぬ変化を導くことがある。強敵に対する予想外の勝利、雑魚に対する思いもよらない敗北などは、「拡散」の良い機会となる。
同様に、サイコロの出目などによって出来事や遭遇相手が決まる「ランダムエンカウンター」もまた、誰もが予想できない展開を導き出すものである。
プレイヤーによる自由なPC設定に基づいた「ロールプレイ」は、データから推測されない行動を生み出す原因となる。例えば、「クラス」や「職業」など、性格付けを規定しないようなデータ構成や、「ライフパス」によるランダムな人格設定などは、予想できない行動の理由となりうる。
私が過去に提示してきた方法論もまた、「拡散型プレイ」を念頭に置いたものとなっていたことに今回気づいた。「、「人系列シナリオ」や「、「遊び方」などがそれである。また現在、シナリオの存在を前提としたランダム表として「拡散表」(仮名)なるものを作成中である。「ランダムエンカウンター」の特性に加え、「拡散型プレイ」に即したシナリオ運用支援の効果を目指している。このような工夫を発見/開発していくことも、私の今後の課題である。
同一シナリオで考える「収束型プレイ」と「拡散型プレイ」
シナリオの主たる内容がダンジョン探索シナリオであっても推理ドラマであっても、参加者間の了解如何で「収束型プレイ」にも「拡散型プレイ」にもなりえる。具体的な内容によっては向き不向きがあるし、その書式によっては手間がかかる場合もあるが、同じシナリオを異なる型でプレイすることも可能である。
「収束型」では、そのシナリオの「理想的な展開」(一つ以上)と、それを実現するためにPCが「なすべきこと」(一つ以上)を考える。「修正収束型」では、PCの導入後、「理想的な展開」から逸脱しそうになったら、プレイ内外での働きかけで、それを元に戻すべく努めることとなる。「指定収束型」では、「理想的な展開」や「なすべきこと」などをあらかじめ伝えておくことで、逸脱の危険性を回避しやすくすることができる。「理想的な展開」(のひとつ)が成立したなら「セッション成功」、それが適わなかった場合は「セッション失敗/崩壊」となる。
「拡散型」では、そのシナリオの「ありうる展開」(一つ以上)が想定される。「限定拡散型」では、「ありうる展開」に適した範囲でゲームプレイ続行の条件が定められる。「無限拡散型」では、特に定めない。プレイ中は、プレイヤーが選んだPCの行動=「やりたいこと」に合わせて、プレイを進めていく。定められた続行の条件を超えるか、プレイ時間が終了となるか、参加者の合意によって、プレイは終了する。その間「楽しむ」ことができるか否かは、各参加者自身に任されている。
その具体例については、掲示板への読者諸氏からの要請に応じて考えることとしたい。また、どのような型にも適応させやすいシナリオ書式を作案することにも、今後取り組んでいきたいと考えている。
「収束型プレイ」と「拡散型プレイ」とは、「混ぜると危険」
「収束型プレイ」と「拡散型プレイ」との相性は、致命的に悪い。これは単なる嗜好の問題ではなく、ひとつの卓の全参加者はどちらを遊ぶのか、統一されていなくてはならないのである。ゲームマスターであってもプレイヤーであっても、一人でも異なる型のプレイを期待するならば、おそらくそのプレイは全員にとって悪い思い出となるのである。その組み合わせのおのおのについて考えてみよう。
まず、「収束型」ゲームマスターと「拡散型」プレイヤーとが卓を囲む場合。「収束型」ゲームマスターはプレイヤーが「するべきこと」をすることを期待するが、「拡散型」プレイヤーはそれに従わない。「するべきこと」と「やりたいこと」が同じでなければ、プレイヤーは迷わず「やりたいこと」を選ぶ。ゲームマスターは必死に「修正」を試みるが、限度を超えた場合には「崩壊」する。「拡散型」プレイヤーがごく一部であるなどして、なんとか「成功」に漕ぎつけたにせよ、「収束型」ゲームマスター(と他の「収束型」プレイヤー)は彼を「下手なプレイヤー」「悪いプレイヤー」と評価するであろう。他方、その「拡散型」プレイヤーは、ゲームマスターに対して「一本道シナリオ」「吟遊詩人マスター」などといった不満を抱くのである。
逆に、「拡散型」ゲームマスターと「収束型」プレイヤーとの場合。「拡散型」ゲームマスターはプレイヤーが自由に「やりたいこと」をすることを期待するが、「収束型」プレイヤーはそうはできない。「すべきでないこと」をしてしまう恐れがあるため、何が「するべきこと」かが明確に示されるまで、(それを探しての「情報収集」以外には)行動を控えるのである。自然、動きは消極的となり、時間の割には展開が進まないこととなる。プレイの展開も物語的に中途半端な形になり、「収束型」プレイヤーからは「出来の悪いシナリオ」「下手なゲームマスター」などの非難が挙がるであろう。「拡散型」ゲームマスターにとってのその「収束型」プレイヤーは、「やる気のないプレイヤー」「地蔵プレイヤー」ということになるのであるが。
このように両型が混ざったゲームプレイは、「収束型」にとっての「セッション崩壊/失敗」、「拡散型」にとっての「楽しくないプレイ」の性格を持つこととなる。このような好ましからぬ状況を回避する方法は、「収束型プレイ」と「拡散型プレイ」の両者の存在を理解し、その卓においてはどちらを遊ぶかを定め、参加者全員の合意を得ることである。
あなたに向いているのはどちらか
さて、卓上RPGの遊び手各々は、どちらの型により向いているのか、どちらの方がより楽しめるのか?
「小説や映画のような物語を楽しみたい」なら「収束型」、「小説や映画とは一味異なる体験を楽しみたい」なら「拡散型」といった単純化もできようが、両型とも試してみるのが理想的であろう。ただ、一方で有効なテクニックが他方でも通じるとは限らないので、プレイ前に考え合わせねばならないことは少なくない。ただ、片方が「面白くなかった」からといって、卓上RPGをやめてしまうのは残念なことである。
ゲームシステムによっても向き不向きがある=どちらかの型を念頭にデザインされていることがあるので、その特徴から考察するのも良いだろう。概して、日本の国産作品には「収束型プレイ」に向いているものが多く、海外作品は「拡散型」に向いているように思われる。加えて言うならば、あるゲームシステムがひとつの型で「うまく遊べなかった」なら、それはもうひとつの型向きなのかもしれない。
結論:参加者全員が何を楽しむのか
卓上RPGでは、「参加者全員が楽しむこと」を最優先とするのが「正しい」とする、私の考えには変わりはない。しかし、何を楽しむのかは、プレイの型によって異なる。
「収束型プレイ」では、自分勝手な「個人の楽しみ」を追求するのではなく、「全員の楽しみ」即ち「全員での成功」を最優先すべきである。つまり、「個人の楽しみ」と「全員の楽しみ」とは別のものであり、しばしば対立するものと考えられることになる。
「拡散型プレイ」では、各々が自分の「個人の楽しみ」を追い求め、かつ他者のそれを受け入れ、相互に活かし合うことが肝要となる。ここでは、「個人の楽しみ」の集合体こそが「全体の楽しみ」であって、前者の外に後者を探しても得られるものは無い。
「収束型プレイ」と「拡散型プレイ」との間に優劣は無い。参加者の嗜好やその時の気分に任された選択肢である。そして選択肢の多さはプレイを豊かにするであろうし、少なくともマンネリ防止にはなるのである。
おわりに:多種多様な卓上RPGの共存
ある時はゲームマスターとして、またある時はプレイヤーとして、私は数多くのゲームプレイに参加してきた。心底楽しめたこともあれば、少々不満が残ったということも、まったくの「失敗」もあった。一部国産ゲームシステム、特にFEARがデザインしたものに強い不満を感じる一方、それらを好む者が海外のゲームシステムに強い不満を漏らすのを見知ることもあった。なぜ、同じものの評価が人によって異なるのか?「好き嫌い」の一語で済ませるのは簡単だが、理由が分かればその差を埋めることが出来るはず。そう考えた末、行き着いた結論が本論考である。
少なくともこの理論により、私はFEARデザインのゲームシステムの素晴らしさを理解し、デザイナーたちに心から尊敬の念を抱くことができるようになった、と思っている。だからといって「好き嫌い」が入れ替わったりするわけではないが、それらを遊ぶ時には、存分に楽しむことができるであろう。
異質なものすべてを楽しむことができるようになること。それが多種多様なものの共存であろう。少なくとも理由無き対立よりは遥かにマシなはずである。