仮説:日本における「プレイヤーの仕事」略史 (2003年執筆)
本論考は、2003年6月16日に発表されたものです。文中の趣旨が、現在の筆者の考察とは異なる場合もありますので、ご注意願います。
「Adventurerとは何か」付録
はじめに、ご注意
以下は、雑記「Adventurerとは何か」で述べた「PCの役割」と「プレイヤーの仕事」を主題として、日本の卓上RPG史を考えたものである。
「それら両概念が日本での卓上RPGにおいてはうまく機能しなかったのではないか」そして「その結果が今日の姿を生んだのではないか」という仮説に基づき、その観点からまとめた実験的な略史である。
まず上記雑記を一読され、「PCの役割」「プレイヤーの仕事」についてご理解の上、お読みいただきたい。それを前提に書かれているので。
仮説:日本における「プレイヤーの仕事」略史
- Dungeons & Dragons(D&D)が和訳出版されるに当たり「Adventurer」は「アドヴェンチャラー」と、そのままカタカナで表記された。このため英語圏の者が読んだ時のような「Adventureする者」という意味が薄くなり、認識されにくくなった。最も優先されるべき役割/仕事が失われ、別の概念が台頭することとなった。
- まずD&Dにおいては「アラインメント」が力を持ち、ローフルかカオティックかなどの解釈と実践が「冒険すること」以上の注目を一時集めることとなった。アラインメント論争に嫌気の差した者は、無視するか、他のゲームシステムへ移行していった。
- D&Dに限らず、あらゆるRPGで支配的となったものが、人生経験や性格などの「キャラクター設定」であった。小説やマンガの愛好家をRPGに招いたせいもあり、それら設定の構築と表現に力を注ぐ者が増加した。遂には、設定を理由にしてシナリオに参加しないという主客転倒した例まで現れるに至った。いわゆる「冒険しない冒険者」で、「このキャラクターはこういう性格だからそれはできない」などの主張が大手を振るうようになった。
- ソードワールドにおける「冒険者」という「世界設定」もまた、思わぬ悪影響を及ぼすようになった。設定として冒険することに慣れた者は、そのような設定が無いと冒険できなくなったのである。先の「キャラクター設定」絶対視にいよいよ拍車がかかることとなる。
- さて、ここで救世主として現れたのが、「トーキョーNOVA」などFEAR製RPGが携えた諸ルールであった。発想を転換し、「シナリオに参加するための設定」をシナリオから提供するようにしたのである。これにより、失われた「プレイヤーの仕事」は、かつてとは異なる形で回復された。めでたし、めでたし。
本当に、めでたしめでたし?
もちろん、この結末は別の問題をはらんでいる。「シナリオに参加するための設定」を与えられることに慣れ、RPGとはそういうものだと考えていると、そうでないゲームシステムではうまく遊べない。それらでは「シナリオの参加するための設定」は自分で作るのが当然だからである。それができない者はどうするのであろうか?FEAR製RPGだけを遊び続けるのか、すべてをFEAR製RPGのように変えさせようとするか、それとも遊び方を変えるか?これは各人が自分で考えるべきことであろう。
おわりにも、しつこくご注意
以上の仮説は、登場した各ゲームを貶めるのが目的ではない。あくまで考察のための仮説であるので、それらのゲームへの非難のための論拠には用いないよう願いたい。ただ、それらの遊び方についての再考を促したいとは期待している。
何度も疑ってみて、それでも良いなら、それは本物であろうから。