「なんにもできない」とは「何ができない」のか (2002年執筆)
本論考は、2002年6月30日に発表されたものです。文中の趣旨が、現在の筆者の考察とは異なる場合もありますので、ご注意願います。
「ゲームデザインのためのタクティクス 第5回」に見られる鈴吹太郎氏の「自由」とRPG観
はじめに
『ゲーマーズ・フィールド 6th Season Vol.4』(p.115)所収「ゲームデザインのためのタクティクス 第5回:できないことはいいことだ」は、読んだ当初、私には不可解な文章であった。ここでは著者である鈴吹太郎氏の過去のプレイ体験が紹介され、RPGの「自由」についての彼の考えが述べられている。が、私には両者がどう結びつくのか分からなかったのだ。
しかし読み返す内に、鈴吹氏の考える「自由」、また鈴吹氏がRPGに求めているものが、私のそれらと違っているのが、理解を困難にした原因だったと気付いた。
このことについて記す。
文章全体の要旨
この文章は四つの段落に分けられており、各々で次のようなことが述べられている。
- 「デモンズ・シティ」
ダブルクロス用サプリメントは「プレイヤーがすることを"限定"しやすい」点で圧倒的に優れた作品である。- 「自由って素晴らしい?」
RPGは「想像力の許す限りの自由を駆使できる」が、自由が行き過ぎることも多い。「なんでもできる」は「なんにもできない」と同じことだ。- 「どこに行ってもいいよ」
鈴吹太郎氏の経験した失敗談。良いRPGとは、プレイヤーおよびPCの行動を、自由と思わせつつ、制限するものである。- 「自由に限定する」
自由度の高いRPGはセッションが崩壊する可能性が大きくなる。ダブルクロスは自由と限定が調和された良いゲームである。「ダブルクロス」のデザインコンセプトについては特に申し上げることは無い。その宣伝を兼ねてはいるが、問題は「自由」についてである。
鈴吹太郎氏の体験談について
第3段落「どこに行ってもいいよ」に記されているのが件の体験談である。「あるファンタジーRPGをプレイした時」として語られるプレイのあらまし(下記1~3)と鈴吹氏によるその評価(4~5)は次の通りである。
- マスターは、未開の森の中で見つけた古城を舞台としたシナリオを準備した。
- マスターは、プレイヤーに未開の森の地図を与え、その中で自由に探検させた。
- その結果、プレイヤー=PCは古城にたどり着かなかった。
- 「どこへ行ってもいいよ」と言われた結果、「どこにも行けなかった」のだ。
- 「"シナリオが始まらない"自由」は、ほんとうに楽しいと言えるのだろうか?
ところが上記の論旨には問題がある。
- 疑問1:1で「古城探索シナリオ」をやりたかったはずのマスターが、なぜ2では「未開の森探検シナリオ」をプレイヤーにやらせたのか。
- 疑問2:未開の森のあちらこちらに行ったはずのプレイヤー=PCが、なぜ4では「どこにも行けなかった」と、5では「シナリオが始まらな」かったと評価されたのか。
- 疑問3:上記シナリオプレイは楽しくなかったかのように読めるが、楽しめなかったのは誰なのか。
これらの疑問を元に考えた結果、次のように私は推測した。
このマスターは「未開の森探検シナリオ」の結末を「古城に着く」と決めていた。しかしながら、( 2でやったことからすれば至極当然なことに)プレイヤーは彼の期待通りには動かなかった。不満は期待の裏返しであるから、このマスターは強く不満を感じ、彼はそのプレイを失敗/破綻/崩壊したものと認識したものと思われる。
プレイヤーはどうか。シナリオの概要について予め説明が無かったのなら「未開の森探検」を楽しんだのではないだろうか。「古城探索シナリオ」を予告されていたのなら、彼らから楽しみを奪ったのはマスター本人ということになる。プレイ終了後、マスターの不満をぶつけられたならば、プレイヤーたちはさぞや当惑したことだろう。
ではこのマスターはどうすれば良かったのか。ひとつの解決策は、過程としての「未開の森探検シナリオ」か、結果としての「古城探索シナリオ」のどちらかを諦めることであった。或いは、後者は前者の展開の可能性のひとつとし、それ以外の展開になっても良しと覚悟すべきであった。マスターが自分勝手に決めた物語から「自由」にならない限り、そのシナリオプレイもまた「自由」なものではありえない。
少なくとも、この話をして「プレイヤーに自由を与えたが故につまらなくなった」例示とするのは、私には納得できないのだが。
鈴吹太郎氏が優先するもの
さて、その時鈴吹太郎氏がマスターだったのかプレイヤーだったのかは不明である。ただ、このプレイに対する彼の評価は、「どこにも行けなかった」として、「"シナリオが始まらない"自由」を問題視するものである。しかしこの「どこにも行けなかった」とは「マスターが行って欲しいところに行けなかった」、「シナリオが始まらない」とは「マスターが期待した通りのシナリオ展開が始まらない」の意に他ならない。このことから鈴吹氏には、「マスターの期待通りに展開したシナリオ」を「成功したシナリオ」とする思考があるのではないか、と私は推理する。
また彼は後の段落「自由に限定する」で、「プレイヤーが自由を感じることは素晴らしい」「自由度の高いTRPGは面白い」としながらも、「選択の幅が大きく曖昧であるほど、ゲームは破綻し、ハンドリングが悪くなり、セッションは崩壊する、という可能性が大きくなる。それはつまらないゲームだ」と述べている。では「ゲームの破綻」とは何か。「ハンドリング」(操作)とは何の操作なのか。「セッションの崩壊」とはどのような状態を指すのか。
これらを総合して想定されるRPG像は次の通りである。
- シナリオには、PCの行動をも含めた「予定された展開」が組み込んである。
- マスターは、「予定された展開」からPC(=プレイヤー)が外れないよう操作(ハンドリング)する。
- 「予定された展開」通りに結末がついた状態を「セッションの成功」と呼ぶ。またそうすることができなくなった状態を、「セッションの失敗」(「ゲームの破綻」「セッションの崩壊」)と呼ぶ。
これはあくまでも仮説であり推測である。だが、鈴吹氏にとってのRPGがこのようなものであり、彼が「良いゲーム」とする「自由に感じるが、自然に選択肢が限られるゲーム」がその完成を目指しているならば。それならば、今回の彼の文章は、私にも理解できるのである。
私の考える「自由」と「限定」
ところで、私の考える「自由」は、鈴吹氏のそれとは若干違うように思われる。なぜならば、それは「限定」の対概念ではなく、むしろ同じものであるから。即ち「限定する権利を自分自身で保有している状態」「己を限定する自由」である。
RPGでキャラターの行動を限定するものには、自分で決める「設定」(性格、人間関係、職業、趣味、能力など)と、他(主にマスター)から与えられる「情報」とがある。両者に「限定」されて、キャラクターの行動が決まるのである。私はシナリオを作る時、展開の「可能性」は考えても、それを「予定」とはしないよう心掛けている。設定も情報も管理せず、それらからどのような行動が生まれるのかを楽しみにしている。どのように「限定」するかは、極力プレイヤーに任せたい。
先の私の雑記「卓上RPGプレイにおける「マスター主導型」と「プレイヤー主導型」」から引用するならば、鈴吹氏のRPGは「マスター主導型」を極端に完成させたものと言えるかもしれない。私のそれは「プレイヤー主導型」に大きく傾いている。「観客」的な機能は、前者ではプレイヤーに、後者ではマスターに与えられる点でも合っているように思われる。
おわりに
過去に私はF.E.A.R.社のRPG(の少なくとも一部)を楽しくプレイしたことがあるが、なぜかどこかに抵抗を感じていた。今回の考察は、その理由の一端に触れることができたのかもしれない。鈴吹太郎氏が示した考え方も面白さを求めての所産であろうが、あいにく私がRPGから得たいと思っている楽しみとは相性が悪いようである。
鈴吹氏式の「限定」のための手段こそ、ゲーマーズ・フィールド別冊で紹介されている「ブレイクスルー機能」である。なるほどそれらによって得られるものは確かにあるだろう。反面、それによって捨てられるものもある。遊び手はそのメリットとデメリットの両面を理解した上でそれを用いるべきである。この「ブレイクスルー機能」については次回雑記にて考察する予定。
また、何故このようなRPGの遊び方ができたのかを考えると、日本のRPGの歴史にその根があるように思われる。実は時折耳にする語「立ち位置」もまたそれに関わってくる。これについても次々回の雑記あたりで述べたいと思う。
私はF.E.A.R.社のRPGは完成度の高い秀作であると考えている。ただ、「完成度の高さ」とは、ある特定の遊び方に特化していることであり、その遊び方において優れているという意味である。その特化の方向性を確認することで、それらがそういう遊び手に向いているのかを確認し、同時に他の遊び手のための方向性を確認できれば良いと考えている。
蛇足:「なんでもできる」は「なんにもできない」?
...ところで。
「『なんでもできる』は『なんにもできない』」とは良く聞くセリフだが、一体「なんでもできる」というのはどのような状況であろうか。実はこの部分はいまだに理解できない。
例えば、今この文を読んでいるあなたが何の予定も何の要求も無い時、やはり「なんにもできない」だろうか?
「なんでもできる」設定の登場人物だとしても、性格や人間関係、仕事や趣味、周囲の状況やちょっとした気まぐれまで、行動を決める手掛かりはいくらでもあるのではないか。
もしどなたか「なんにもできない」ような「なんでもできる」状況をご存知なら、ぜひ教えて欲しい。残念なことに、私は一度もそのようなものに出会ったことがないのだ。ゲームの中でも、その外でも。