悲劇という病 (2001年執筆)

本論考は、2001年11月10日に発表されたものです。文中の趣旨が、現在の筆者の考察とは異なる場合もありますので、ご注意願います。

卓上RPGにおける"トラジェディアン"考

はじめに

卓上RPGの遊び手の分類のひとつに、"トラジェディアン(Tragedian)"というものがある。辞書には「悲劇俳優」「悲劇作者」などの訳が載っているが、ゲームに関することなので、私は勝手に「悲劇愛好家」と訳している。例えば、『深淵』(スザクゲームズ/アトリエサード)において「美しき滅び」を求める者や、『クトゥルフの呼び声RPG』(ケイオシアム/ホビージャパン)を「死と狂気を楽しむ」ゲームと喧伝する輩などがこれに当たる。

この「悲劇愛好家」とはどのような遊び手なのか。この遊び方にはどのような長所と短所があるのか。そもそも卓上RPGにおける「悲劇」とはどのようなプレイを指すのか。これらについて考えたことを以下に記す。

卓上RPGにおける「悲劇」とは何か

まず、卓上RPGにおける「悲劇」とは何かを考えてみよう。「悲劇的要素」即ち、不幸・悲惨・破滅・敗北・苦悩などは、プレイ中のいつ表れるかによって「悲劇的状況」と「悲劇的結末」とに分類される。

悲劇的状況」とは、プレイの始めもしくは中途(あるいはその両方)で不幸・悲惨・破滅・敗北・苦悩などを味わう状態となることを指す。「悲劇的結末」とは、プレイの終わり、最終的な結果においてそのような状態となることを表す。「悲劇的でない状況」「悲劇的でない結末」との組合せを考えると、四通りの展開が考えられる。

  1. 「悲劇的状況」→「悲劇的結末」
  2. 「悲劇的でない状況」→「悲劇的結末」
  3. 「悲劇的状況」→「悲劇的でない結末」
  4. 「悲劇的でない状況」→「悲劇的でない結末」

1と2は「悲劇」の名に値する。違いを言うならば、1は「どん底でのた打ち回る物語」、2は「どん底に転落する物語」といったところか。3でも確かに主人公(PC)は悲惨な目に遭うのだが、それに立ち向かい、やがてそれを克服する(あるいは単に無くなる)。これは成功劇であり、「悲劇」とはいい難い。4はまったく「悲劇」ではない。

このように考え、ここで述べる卓上RPGにおける「悲劇」とは、導入や過程に関わらず「悲劇的結末」に終わるものと確認しておく。

卓上RPGにおける「悲劇愛好家」とは何か

悲劇愛好家」とは、「悲劇的結末」に至る物語を卓上RPGのプレイに求める者である。「愛好する」とは具体的にどのような行為として表れるのか、次に考えてみよう。ゲーム参加者にとっての「悲劇的結末」、その関係には二種ある。それを「結果」とするか、「目的」とするかである。

結果としての悲劇」においては、「悲劇的結末」とは即ち、「失敗」のことである。プレイヤーは(そして大抵はマスターも)プレイの中で成功を目指して様々な努力と工夫を凝らす。情報収集、交渉、推理、そして戦闘。それらの小目標が滞りなく達成されたならば物語は「ハッピーエンド」を迎え、「成功」として受け入れられる。しかしどこかで何かが適わなかった時、物語は「悲劇的結末」を迎える。前項の四通りの展開を思い出していただきたい。1は3の、2は4の「失敗」した展開なのである。いずれになりやすいかはジャンル等で様々だが、プレイヤーの選択次第でどちらの可能性にもなりうる点は変わらない。「結果としての悲劇」とは、受け入れざるを得ないものであるが、あくまでも望まれない「失敗」である。愛好し、求めるものではない。

もう一つの「目的としての悲劇」は、プレイの中で「悲劇的結末」を得ることをこそプレイの目的とするものである。ここでは「悲劇的結末」は「失敗」ではない。「美しい」など別の評価が与えられ、「成功」に近い意味合いすら持つようになる。「悲劇愛好家」が好むプレイはこれである。目的として「悲劇」を獲得するには二通りの方法がある。

  1. プレイヤーが「悲劇的結末」を迎えるよう努める。悲劇的結末を迎えると思しき判断を選択していく、己の悲劇的背景設定が最悪の形で結末を迎えるように立ち回る、また救いようの無い状況を作った上で積極的な問題解決を行わないなど。
  2. 必ず悲劇的結末が約束されたシナリオをプレイする。情報収集等に成功すれば事件の真相を知ってから死に、失敗すれば何が何だか分からないまま死ぬようなシナリオなど。以前、このようなシナリオのプレイを雑誌のリプレイ記事で見かけた記憶がある。公式に発表されるくらいだから、1よりも一般的に行われているのかもしれない。

悲劇を愛好することの長所

「悲劇愛好家」として卓上RPGを遊ぶメリットを考えてみよう。抜けているものがあるならば、ご指摘いただければ幸いである。

  1. 安心感。必ず悲劇となるプレイには「失敗」がない。それがどれほど悲惨なものであっても、予定された惨劇、覚悟済みの運命には安心感がある。
  2. カタルシス。演劇等で悲劇を見るとこのような効果があるらしいが、同様の効能がある...かもしれない。(この辺、特に素人です...(^^;)。)
  3. 自分の生身ではできないような悲惨さを、演劇等の鑑賞よりも身近に感じる。演劇などの悲劇が好きな人間にとっては、より身近になれるRPGでのそれは魅力的なのかも。

悲劇を愛好することの短所

次いで「悲劇愛好家」として遊ぶデメリットを挙げてみよう。

  1. 悲劇を愛好しない者へのダメージ。わざと失敗したり、成功のための努力をしないプレイヤー、また何をどうしても必ず悲劇に終わるシナリオやマスタリングは、「悲劇愛好家」以外の者にとっては苦痛以外の何物でもない。
  2. 無茶なことをするプレイヤー、マスター任せのプレイヤー。「成功」を目指すシナリオで「悲劇愛好家」としての行動を取ってしまう恐れがある。「わざと失敗」は論外だが、悲劇的設定に凝りすぎたり、マスターに与えられる運命を待っていたり、窮地に陥るとそれに陶酔しがちであったりなど、ついそうなってしまうかもしれない。
    # 様々な遊び方を体験していれば回避できます。
  3. 自分の想定するイメージ(例えば「美しさ」)の中でしか対処できないマスター。必ず決まった結末に終わるシナリオ、そしてそれで満足してくれるプレイヤーにばかり慣れてしまうと、積極的に話を変えていくタイプのプレイに対処できない恐れがある。特にマスター側が気に入った設定を無視したり壊したりできるかどうか、心配される。
    # 様々な遊び方を体験していれば回避できます。
  4. 悲劇用でないゲームに対する誤解を招く。「悲劇愛好家」にとって「悲劇」をやりやすいゲームが、あたかもそのためのゲームと勘違いされる危険がある。『クトゥルフの呼び声RPG』が「死と狂気を楽しむ」などとされたのが典型。
    # 『深淵』は...どうでしょね(^^;)?

おわりに:悲劇を愛好する者たちへ

まずお尋ねしたい。私が「悲劇」と呼ぶもの、「悲劇愛好家」と呼ぶものは上記の通りである。それはあなたにとってもそうであろうか?答えが「否」なら、あなたの遊び方はおそらく私が懸念するものではない。

もし「応」だとしても、「悲劇」を愛好すること自体に私は文句をつける気は(あまり)無い。ただし、遊ぶ相手を慎重に選んで欲しい。「悲劇」をやるのだということを念を押すこと。加えて「(目的としての)悲劇」はひとつの遊び方ではあっても、上級の遊び方でも、高尚な遊び方でも無い。かような誤解を招く発言はくれぐれも避けて欲しい。

少なくとも私は、悲劇を愛好しない者の方が愛好家より多いと思う。そうあって欲しい、というのが実は本音である。