サプリ2号のインタビュー記事を読んで考えたこと (2001年執筆)

本論考は、2001年7月9日に発表されたものです。文中の趣旨が、現在の筆者の考察とは異なる場合もありますので、ご注意願います。

"TRPG:サプリ"誌2号所収「鈴吹太郎・遠藤卓司インタビュー/システムデザイナー解体新書」読後の考察

(※私=鏡の文章では公人たる業界人の氏名は常に敬称を略しております。)

はじめに

スザクゲームズ社刊「TRPG:サプリ」誌2号所収「鈴吹太郎・遠藤卓司インタビュー/システムデザイナー解体新書」(同誌p.2~9;以下文中引用も同様)を友人に薦められて読んでみた。優れたゲームを提供するために計られた深慮、工夫、苦労、思想などがその文中に伺え、大変勉強させていただいた。しかしその一方では浅慮な発言も見受けられ、その落差に私は驚き、困惑した。

この雑記では、上記インタビューを読んで私が考えたことを記す。特に注目した文章部分を引用するが、無意識に誘導を含んでいる恐れもある。できるだけ同誌をご覧の上、参考意見としてお読み下さることをお勧めする。

1、複数人でゲームを作るということ

鈴:(中略)そもそも「世界観」と「システム」というものは別のものではないんです。どちらもゲームデザインという枠の中での分業でしかないんです。(p.2中)

遠:何が面白いかっていうのは、ゲームコンセプトによるんですけどね。

(中略)

鈴:微妙に修正するでしょ。

遠:それはもちろんそうですよ。(p.9左)

ゲームデザインの方式を、それに関わる人間の数によって分類すると次の三通りが考えられる。

  1. 一人のデザイナーがすべてを作成する
  2. 一人のデザイナーの主導の下、複数のデザイナーが協力して作成する
  3. 複数のデザイナーが作業を分担し、意見を交換しつつ作成する

すべての作品においてでは無いかもしれないが、F.E.A.R.社では主に3番目の方式を採用しているようだ。インタビュー文中には、『天羅万象零』において井上純弌による当初のデザインコンセプトが遠藤卓司のシステムデザインを受けて路線を変更された旨が記されている(p.9左)。この方式はかつてグループSNEの"ソードワールドRPG"でも採用されており、それのみではないにせよ、日本RPG業界における標準的なデザイン方式として根付いているのかもしれない。

さてこの「皆で作る」式のゲームデザインには、(当然のことながら)メリットとデメリットがある。メリットは、多様な考え方が組み入れられることで良い意味での複雑さ=奥の深さが生じうるということと、色々な視野が偏狭さを無くしてユーザー層に広く受け入れられやすいものを作りうることである。デメリットは、最初のコンセプト通りの物が必ずしも作られない恐れのあることと、各デザイナーの意図が混乱して悪い意味での複雑さ=分かりにくさに繋がる可能性があることである。

近年F.E.A.R.社は精力的にゲーム出版を続けているが、それらのゲームが皆メリットをより多く活かしたいることを祈るばかりである。

2、F.E.A.R.式テストプレイが目指すもの

鈴:(中略)現在のF.E.A.R.ではテストプレイでゲームデザイナーがGMやプレイヤーをしないことになっているんです。(中略)あくまで対象とするゲームを知らない人がどのようにプレイするかを観察するんです。(p.4中)

このインタビュー記事の中で私が最も感銘を受けた点は、F.E.A.R.社で採用されているテストプレイ方式の秀逸さであった。そこには卓上RPGのルールブックをひとつの完結した商品として捉えた上で、その完成度を高めようという目的意識と、そのために有効な工夫が凝らされている。実に素晴らしい。もっとも他の会社ではどのような形式で行われているのか、私は知らないのであるが。

ところで最近の同社作品は、おそらくは「誰にも分かり易いRPG」を目指そうとしているように思われる。あいにく、テストプレイ以外の、ゲームシステム上のそのための工夫には私の好みとは相容れないものがある。勿論ひとつの選択肢/嗜好としては歓迎するが、それを彼らが「唯一の正しい進化」などとは思い込まないことを、これまた祈るばかりである。

3、プレイ時間の何を縮めるのか

鈴:(中略)これまで8時間くらいかけて実現していたような充実感が、その3分の1の時間で実現できるようになってるんですよ。これが速くなったってことです。(p.8中)

近年出版された一部のゲームは、プレイ時間の短縮をその長所として喧伝している。常々疑問に思うことだが、一体プレイの何を縮めるというのだろうか。

このインタビューを信じるならば、8時間のプレイの3分の2=5時間20分を短縮できるという。しかし私の経験からは、それほどの時間を短縮できる要素など思い当たらない。それほどの時間を無駄に消費したことなど記憶にないのだ。例えば情報収集や推理の時間が長くなりやすいが、これを無くすのは面白さには繋がらないと思う。戦闘場面の処理に長くかかるゲームもあるが、それはルールを省略すれば良いだけのことではないか?

ひょっとしたら、私にとって未知のプレイ要素があるのかもしれない。私がそれをすべてのルールブックにおいて読み損ねたか、あるいはルールブックに書いていないことだったのかもしれない。ある人々は3時間で済むプレイに8時間を費やしてでもその要素にこだわり続けた。そしてその内の一部の者がそれにかかる時間を短縮するためのルールシステムを開発した...。あぁ、これほどに想像をたくましくしても、それが何なのか分からんぞ。誰か助けて(^^;)。

おそらくは、今日まで天羅系のプレイ経験が無いのが失敗なのだろうなぁ。大きな理由はつまらな...もとい趣味に合わない世界設定。一度は試そうと赴いた某コンベンションでは人気が高過ぎてプレイできず...。いずれにせよ、この謎は実施に体験するまで残るのであろう。何とか機会を得たいものだ。

# 第2回RPG日本コンベンションを経て"トーキョーNOVA"は何となく分かったし。

4、プレイスタイルを考えることの意義

鈴:世の中には「ゲーム派とロールプレイ派」「アドベンチャラー派とストーリー派」なんて分類をして、自分の存在を確立しようとする人もいるようですが、私にはそれがそんなに意味があるとは思えません。(p.9中)

「私は何派で...」「あなたは何派だから...」云々と無理に主張をして問題を起こす輩が、彼らの身内か身近なところにいたのかも知れない。そういう者を警戒/非難するのであれば、この発言は誤りではない。

しかしながら、嗜好やプレイスタイルに関する考察すべてを「無意味」と言うのであれば、その見解は間違っている。卓上RPGの楽しみ方において二つの両極端を想定し比較することの目的は、各々の長所/短所を考察した上で、自分たちのプレイに真に適したバランスを見出すことにある。白か黒かの問題ではなく、その間のどの辺りであるかが重要なのだ。

彼らの作ったゲームは、売られるままに買い、書かれた通りに遊ぶだけでも、きっと楽しいものなのであろう。考え、語り合わねば楽しめない従来型の卓上RPGは、人によっては古臭いものに見えるのかもしれない。しかしながら後者の喜びは前者に勝るとも劣らない。そう考えれば、そのための考察を「意味が無い」とは浅慮な発言であろう。

5、重箱の隅

仲間内で密かに突付くのが作法である。しかしながら見て見ぬ振りをするのも精神衛生上よろしくないので、あえて突付こう。

鈴:(中略)そもそもゲームとゲームをプレイするという意味でのロールプレイを分けることはできないし、(以下略)(p.9中)

上記文章は、鈴吹太郎が「ゲーム派とロールプレイ派」といった考察を無意味とする根拠を述べたものである(以下、文Aと称する)。次の文と読み比べていただきたい。同席する遠藤卓司が、井上純弌のゲームサークルに所属していた時のことを語ったものである(以下、文Bと称する)。

遠:(中略)当時「RPGはロールプレイをしなきゃダメだろー」とも言ってましたね(笑)。(p.3左)

遠:(中略)それでプレイヤーにロールプレイを要求するのはどうか?って話になりまして。(同上)

文Bは、文Aで鈴吹太郎が言う「ロールプレイ」では意味が通じない。このことから、このインタビュー中では「ロールプレイ」という語に二種類の意味が与えられていることがわかる。即ち、

  1. ゲームをプレイするという意味での「ロールプレイ」
  2. ロール(キャラクターの役割または人格)をプレイするという意味での「ロールプレイ」

である。

鈴吹太郎が「ゲーム派とロールプレイ派」等の考察を「意味がない」とする理由は、1の「ロールプレイ」についての判断であり、2の「ロールプレイ」については語っていない。しかも1の「ロールプレイ」はこの部分にしか出てこない語であるから、「ゲーム派とロールプレイ派」を評価するためにのみ用いられていることになる。加えて、私の知る「ゲーム派とロールプレイ派」は2の「ロールプレイ」を扱うものなのだ。なんとも奇妙なことである。

身内の話と他人の論考とで、同じ言葉の意味を違える必要はあるまいに。

6、ついでに

鈴:(中略)ましてやゲームのドラマティックな冒険とそのストーリーを分けるなんて何の意味もないことです。(p.9中)

これは「アドベンチャラー派とストーリー派」(後者は正しくはストーリーメーカー派)という考察を批判する論拠である。元となる考察について尋ねたところ、ある方にサプリ誌第1号所収「岡田伸・楯野恒雪インタビュー/TRPGアドベンチャラー派宣言」(p.28~35)と教えていただけたので、早速読んでみた。

結局、鈴吹太郎はここでも、その論者の用語とは異なる意味を挙げて、その論旨を否定している。ひょっとしたら他人の文章を読み取る能力が欠落しているのか、否定するためにわざと曲解しているのだろうか?前者ならプロとしての力量、後者なら人間として品位を疑われる行為であるが...。

なお、この楯野恒雪はかつて軽蔑さるべき行為をした人物である(注)が、この「アドベンチャラー派」「ストーリーメーカー派」という考察は素晴らしい。未読の方はぜひご覧になることをお勧めする。

(注):かつて「舘野恒夫」の名で"Everway"という卓上RPGのレビューを書いた際に、ルールブックにないルールを捏造するなどして紹介した挙句、出来の悪い作品と評価した(→参考)。中学生程度の英語能力すら無かったためか、どうにかして同作品を貶める必要があったのかは定かでない。なお彼の自称する肩書は「ゲーム翻訳家兼ゲームデザイナー」である。

おわりに

私はこのインタビューを読んで、著名なプロの工夫や努力に感心する一方、以前から持っている不信感を更に強くした。

実はスザクゲームズ社「別冊FSGI」誌5号の井上純弌インタビューから、サプリ1号、2号のインタビューと、先に出た意見を後の者が批判的に見るという展開が続いている。本来ならば、それが許される環境とは大変健全なものである。しかし今回の鈴吹太郎による稚拙な批判は、批判をしなくてはならないから無理に批判しているかのように思われるのだ。インタビュー以前に、あらかじめ約束事でもあったのではないかと勘繰りたくなるくらいに。

「下種の勘繰り」と友人たちからも揶揄されるのだが、私は時にプロたちが一致団結して情報操作を行っているのではないかと疑うことがある。一時期複数の誌面で展開された海外RPGに対する誹謗中傷(と私は判断した)以来のことである。私とて日本のRPGが海外のそれと比べ極端に劣っていはしないと思うが、海外RPGを嘘で塗り固めたレビューによって貶めるなどは許されてよいことではない。既に過去の話ではあるが、これについては次回雑記にて苦言を呈する予定。

読み返すと批判ばかりが目立つ文章になってしまったが、これほど考える材料を与えてくれた以上、良い資料であったとも、購入した価値があったとも思う。未読の方には一読をお薦めしたい、というのもまた本心である。