卓上RPGプレイにおける「マスター主導型」と「プレイヤー主導型」 (2001年執筆)
本論考は、2001年4月20日に発表されたものです。文中の趣旨が、現在の筆者の考察とは異なる場合もありますので、ご注意願います。
あなたのゲームプレイに"正解"はあるか?
あるいはそれを決めるのは誰か、ということ。はじめに
卓上RPGの遊び方に「マスター主導型」と「プレイヤー主導型」の二種が考えられるという結論に私は至った。自分の過去のプレイについて考察した結果である。また私の経験から判断するに、実際に行われている多くは前者であり、後者の姿はほとんど見られないことにも気付いた。同じゲームシステムを用いてさえその遊び方やコツが異なるこれら二種の遊び方について以下に記す。
「マスター主導型」とは
「マスター主導型」において中心人物となるのはゲームマスター(以下マスター)である。
マスターはシナリオを用意し、プレイヤーへの情報供与を通して、彼らにその解決を目指させる。シナリオには達成さるべき目的、達成を阻む障害、障害を除く方法などが明確に定められている。マスターに求められるものは、目的やヒントを暗に、しかし確実にプレイヤーたちに伝達する能力であり、また進むべき道を見失わせないようにする気配りと裁量である。他方プレイヤーに求められるものは、マスターが示す情報を過ち無く解した上で、担当する登場人物(プレイヤーキャラクター)の特性(能力、人格、他との関係など)を存分に活かす才覚である。
成功した「マスター主導型」のプレイは、参加者全員の心に使命感、危機感、そして達成感を強く刻み込む。成功の秘訣は、"正しい情報"の確実な伝達と、それに対する"正しい対処"である。時には参加者の熟練度に応じて"難易度"を調整する必要もある。
「プレイヤー主導型」とは
「プレイヤー主導型」における中心はプレイヤーたちである。
マスターはシナリオを用意するが、そこには解決さるべき事柄は必ずしも含まれていない。シナリオに表されるものはプレイヤーキャラクターの周囲の状況やそうなった経緯であり、また今後ありえる展開は(予定でも目標でもなく)可能性としてのみ示唆される。その中でプレイヤーは自らの境遇を確かめ、目的を見出し、担当する人物の行動を講じていくこととなる。対してマスターに求められるものは、プレイヤーの行為に対してただ反応を返し続けていくという機能である。プレイヤーが足を向けたところに道を作るが、それは"進むべき道"ではない。道の先に相応しい障害が現れても、それは"克服すべき障害"ではない。
成功した「プレイヤー主導型」プレイは、自由の感覚と寛ぎの一時、また創造の感触によって参加者全員を楽しませる。成功の秘訣は、いかなる行動にも"正否"は無く、あらゆる発案も等しく尊重されるという意識統一と信頼関係である。(あらゆる可能性に対処するための準備も要求されようが、この点については考察不足であり、今後の課題としたい。)
両者の差異について
このように「マスター主導型」と「プレイヤー主導型」とでは、シナリオ、マスター、プレイヤーに要求される働きが異なる。他の差異について、思いつくままに連ねてみよう。
(負担と責任)
「マスター主導型」の成否はマスター次第であり、面白さの上限もマスターの腕前や準備によって制限される。そのため負担も責任もマスター担当者に負うところが大きい。成功によって最大の満足と名誉を同時に得るのはマスターであるが、失敗した時最も悔いを残すのもマスターである。比するにプレイヤーの負担や責任は共に少ない。
「プレイヤー主導型」では、プレイヤーは行動の発案において、マスターはそれへの対処において共に少なからぬ負担を引き受ける。しかしながらそこに明確な成否は無く、すべては両者の応答の結果であるから、責任の感覚は少ない。
(正解と解法の有無)
「マスター主導型」には"正解"があり、それゆえ"解き方"がある。それは個々のゲームシステム特有であるか、ジャンル特有であるか、あるいは卓上RPGに特有である。その習得には、ゲームプレイ経験の質と量とが要求される。
「プレイヤー主導型」プレイもプレイヤーが行動を思いつかねば進行が滞る点で同様であるが、そこに"正解"や"解き方"は無い。行動の舞台世界らしさやジャンルらしさは他の参加者からも期待されるであろうから、そのゲームの経験か、或いは同ジャンルの物語に親しむ経験は有効であろう。しかしながら"正しい行為"への要求は少ない。
(制限という手法)
プレイの現場において、プレイヤーキャラクターを制限するという手法がある。"プレロールドキャラクター"とは、元はその作成に要する時間を節約するためのものであったが、昨今ではプレイヤーがシナリオに取り組みやすくするために、別の言い方をするとプレイヤーがシナリオを逸脱しないようにするために用いられることがある。「アーキタイプの制限」「設定の制限」等も類似の手法である。
この手法は「マスター主導型」プレイにおいて有効である。プレイヤーが設定(人格設定や人間関係など)に振り回され、余計な労力や時間を浪費するのは参加者の誰にとっても良いことでは無いからだ。
他方「プレイヤー主導型」においてこの手法を用いるのは良い選択ではない。プレイヤーの発想がマスターの思惑の範囲内に限られねばならない理由はなく、むしろ不満の種になるからだ。
中間形態を考える
さて、「マスター主導型」と「プレイヤー主導型」という二種の遊び方について述べてきた。物事を両極に分けて考察する意義のひとつは、その長短を検討し、可能な限り多くの長所を得られる中間形態を見出すことにある。ここでもそれを試みてみよう。
結論から言うと、完全な中間形態、誰にとっても好都合な形式は今の私には考えられない。
例えば「行動指針はプレイヤー任せだが、行き詰まったらマスターが手助けする」とは「プレイヤー主導型」のようだが、行き先をマスターが示してしまえばそれは「マスター主導型」の枠から出ていないこととなる。
また「(ジャンル等によって)期待される目的は用意しておくが、それと別方向に行くことも可能」とは、前半部分だけで終わってしまえば「マスター主導型」の如きで、後半が徹底できれば「プレイヤー主導型」というあやふやな形態である。
このことについては、今後自身のプレイの場で更なる答えを探し求めていきたい。
おわりに
「マスター主導型」「プレイヤー主導型」という両概念を私が認識し、いろいろと考え始めたのはつい最近のことである。私自身については、今まで「マスター主導型」の手法を講じつつ、実は「プレイヤー主導型」を求めていたことに気付き、ずいぶん遠回りをしていたように思う。両者を比較するに、私自身の好みは強く「プレイヤー主導型」であるので、今後はそのためのノウハウを考え、実践に活かしていきたいと考えている。
この文章を読んだ方が、自身の嗜好を再確認する一助となれば幸いである。