「ソードワールドRPG」考 (1999年執筆)

本論考は、1999年2月1日と2月28日とに発表されたものです。文中の趣旨が、現在の筆者の考察とは異なる場合もありますので、ご注意願います。

はじめに

"「ソードワールドRPG」は日本の標準的RPGに成り得ない"あるいは"そうすべきでない"と言ったら驚かれるでしょうか?

国産RPGの内、日本で最もプレイされているゲームシステムは「ソードワールドRPG」であるといえましょう。発表(1989年)より十年もの間、日本のRPG界の枢軸を担ってきたこのゲームの功績は少なくありません。「上級ルール」や「完全版」、更にはワールドガイドも各種出版され、今なお続く人気の高さが伺われます。

が、それでも私は先に述べた見解を掲げざるを得ません。何故なのか?

以下、このゲームシステムについての考察を、三回に分けて述べていきます。最初に、私とこのゲームの関係について。次に、そのルールシステムの持つ指向性について。そして最後に、日本のRPG界においてこのゲームが果たした役割を考察した上で、今後望まれる展開について語ってみましょう。

第1回 「ソードワールドRPG」と私

私が卓上RPGを始めた頃、ファンタジーRPGの選択肢は、新和版の「D&D」か「Roads to Lord」程度でした。(余談ですが、Roads to Lordは世界の独特さが鼻についてあまりプレイしませんでした。)友人達と「D&D」を数年プレイし、「AD&D」の翻訳を試みて(英語力の問題で)挫折し、それでも懲りずに「Rune Quest」の原語版を熱心に読み耽っていた頃。「ソードワールドRPG」が出版されたのは、そのような時でした。

正直なところ、私は最初から「ソードワールドRPG」を高くは評価していませんでした。爽快感の無い戦闘ルール。足し算の面倒な行為判定。「冒険者」だの「冒険者ギルド」だの、お定まりのシナリオのためだけにあるような設定。黒塗り部分が気になるキャラクターシート。「レーティング表」という名の欠陥。「Rune Quest」に熱を上げていたせいもあるでしょうが、舶来品との実力差は明白ではありませんか。

今更(「D&D」や「Rune Quest」をコピーしたような)呪文など憶えるのは面倒だったので、戦士や盗賊、賢者などの能力ばかりでプレイに参加しました。もちろん、プレイ自体は楽しいものでした。「D&D」で既に独自の世界をでっち上げて遊んでいた私たちでしたから、適当に描き上げた地図の上で遊びました(公式世界?未熟な我々の作った世界とさほど差が無いではありませんか)。成長の効果が極端でないのも、「Rune Quest」程ではなくとも好みに合いました。

"日本人が作った「D&D」みたいなゲーム"と思えば、愛国心の強い私としても悪い気はしません。"今はこの程度だが、学び始めじゃあ仕方ない。しかし、いずれはアメリカのRPGを越えるものが日本で作られるだろう。もっと色々なことを吸収した時にいつか..."そう思ったものです。

"アメリカのRPGに比べても遜色無い。"ある雑誌(多分RPGマガジン)が「ソードワールドRPG」を評してそう書いてあるのを見て、私は目を疑いました。それから更に数年。「ソードワールドRPG」は今なお日本で最もプレイされているRPGです。

出版されてから、なんと十年。十年を経て、今なおこの人気!

私の思いを、正直に申しあげましょう。

"何でまだいるの?"

第2回 その判定ルールが持つ指向性

「ソードワールドRPG」のルールシステムの特徴としては、レーティング表重さによる武具の細分化効果調整の可能な魔法ルールなど、幾つかの要素を挙げることができます。しかし、他のルールシステムにも大きな影響を与えている最大の特徴は、"基本値+2d6(2d6:六面体賽子二個を振った出目の合計値)"という基本判定ルールです。"オーソドックスな判定ルール"と称されることすらある、この判定ですが、決して癖の無いルールとは言えません。ここでは特に、この判定ルールに話を絞って考えてみることにします。

六面体賽子を用いること、二個であること、またその出目の幅などについては触れません。"特定の賽子を複数個振り、その出目の合計に個の特徴を表す数値を加えた総計が、より大きいことの望まれる方式"という部分にのみ注目しましょう。"足し算を何度もしなければならない"という他に、"各出目が出る確率の分布曲線が山型を描く(即ち、出目が期待値に集約される傾向を持つ)"という特徴があります。デザイナー本人がそのように雑誌に書いていたように記憶しておりますので、ご存知の方も多いでしょう。これを長所のように評価する向きもありますが、私個人としては、傾向ではあっても長所では無い、という見方をしております。

卓上RPGの判定ルールは、「能力値」「レベル」「技能」などと称される、キャラクターの個性をあらわす何某かの数値を、その手順に組込んでおります。無論、キャラクターの個性を反映するためですが、キャラクターの行動の結果をある程度予測するためという側面もあります。「ソードワールドRPG」の判定ルールも、個性をあらわす値(「能力値ボーナス」と「技能レベル」)を既に組込んでいますから、出目が期待値に集中しやすい特性を持つ判定ルールの採用には、それを更に強化するという意味があるわけです。「能力値ボーナス」と「技能レベル」が設定する可能性の幅を、ランダムに決まる部分でも更に狭めようとしているのです。このことが、"複数の賽子の出目を足す"という方式の効果だと私は判断しております。

さて、"(少なくとも卓上RPGにおける)ゲームデザインには、必ずそのデザイナーの指向性が顕れる"というのが、私の考え方です。これに則ってこの判定ルールの中に顕れている指向性を読み取ってみましょう。

直接的には、"シナリオプレイにおいて、ただ賽子の出目のみのせいで、誰にも予期できない展開が発生することを、極力排したい"という思惑であろうと、私は考えます。この指向性は、その実用において長短二種の可能性を持ちます。長所としては、

  • 極度に不運な出目によるアンハッピーエンドの回避
  • 逆に、極度に幸運な出目による容易過ぎるクライマックス=盛り上がりの不足の回避
  • またシナリオ作成における先見力の負担軽減

などが挙げられます。

では、それが短所として表れた場合はどうなるでしょうか。例えば、

  • 作り手の思惑通りにしか進まないシナリオや、
  • 枠を越えるためにはマスター以上の"作戦"や"話術"などのプレイヤー能力に頼らざるを得ないプレイ

などがあり得ます。よく言えば"ストーリー指向"、悪く言えば"一本道指向"と言えましょうか。

また、確率が期待値に寄るということは、ギャンブル性の軽減を表し、また賽子を振る興奮の軽減をも意味します。このルールシステムの他の部分、例えば「(能力値を6で割った)能力値ボーナス」や「レーティング表」もまた、賽子の出目によって決まる能力値の偏りを極力抑えるべく働いていることにお気付きでしょうか。「ソードワールドRPG」は、ギャンブル性を排除するという指向性も持っているのです。

以上を根拠に申しあげますと、「ソードワールドRPG」は、シナリオプレイが大筋で期待通りに進むことを好む"ストーリー指向"の者に向いているルールシステムであって、予想外の展開を好んだり、賽子を振る快感を感じたい者には向いていない、ということになります。それは、"特定の賽子を複数個振り、その出目の合計に個の特徴を表す数値を加えた総計が、より大きいことの望まれる方式"の宿命であると言っても良いでしょう。

この事に気付いた理由は、恐らく私がゲームに爽快感を要求する嗜好を強く持っているせいでしょう。が、私は自分が少数派だとは思っておりません。むしろ、より気軽な楽しみ方であって、遊び手を選ばない類の指向性であると考えるのですが...?

ところが実際にはそうでも無いようで、国産市販ルールや、特に同人ルールなどで、"基本値+2D6"を採用しているゲームが非常に多いように思われます。単なる真似であれば、文句を言う筋合いではないのですが、この判定ルールは上記のような指向性を持っており、万人向けでは決してありません。しかし採用の割合が、この方式に偏重しているように感じられ、私の不安を誘うのです。

先述した見解"ゲームデザインには、必ずそのデザイナーの指向性が表れる"には"ルールの選択には、必ずそれを選択した者の指向性が表れる"という続きがあるのですが、更に"遊び手のプレイスタイルには、選択されたゲームの指向性が反映する...かもしれない"という懸念に繋がっています。"ストーリー指向"のルールばかりになったら、そういう遊び方ばかりになってしまうのではないか?それ以外の遊び方を好む者はどうなってしまうのか?...これらが私の考え過ぎである事を祈るばかりです。

アマチュアであれ何であれ、デザイナーを目指したい方に、もう一言。

すべてのデザイナーにとって、最高の作品は常に自分の苦心作である。しかし、それはその者にとっての最高作であって、あなたのものではない。

先人の"思考"を模倣することは良いが、先人の"指向"を模倣してはならない。先人を超えることこそが後進の勤めであって、先人と同じ事をすることではないのだから。

(ここまで1999年2月1日公開、以下は2月28日公開)

第3回 「ソードワールドRPG」という"スタンダード"

「ソードワールドRPG」という名の、ひとつのゲームシステム。このシステムには、その発表以来、常に"国産RPGのスタンダード(標準)"という立場が与えられてきました。10年前はもとより、今日ですら。このことには、どのような意味があるのでしょうか?そしてそれは「日本の卓上RPGにとって良いこと」なのでしょうか?...今度は、このゲームが日本卓上RPG界の中で占める立場、あるいは意義について考えてみます。

スタンダード(standard) Ⅰ:標準的であるさま。正統的で常識的であるさま。 Ⅱ:標準。規準。(小学館国語大辞典より)

まず10年前。当時私が、ごく個人的に抱いていた疑問。それは"何故この程度のルールシステムをこれほど皆が持ち上げるのだろうか?"というものでした。ある程度の評価に値する作品ではありますが、あまりに褒め過ぎなのでは?しかし当時の市販雑誌紙面にはこのゲームシステム(とグループSNE)を称える言葉に満ちており、友人の前ですらその疑問を打ち明け難い雰囲気がありました。まるでこれ以上のRPGなどありえない、とでも言わんばかりの風潮だったのです。(尤も、当時の日本のRPG誌に"デザイナー同士で互いの作品を褒め合う"という形式以外の"レビュー"を見つけることはまず出来ませんでしたが。)

とはいえ、個人的な好みを棚上げにするのであれば、市場拡大が急務であったろう当時の業界がこぞって「ソードワールドRPG」に"スタンダード"の地位を与えたのは、十分意味のあることだったと(10年を経た現在の)私は判断しております。何故か?「アメリカ製ゲームは究極的には日本人向きではあり得ない」ということもあります。「日本人の予備知識や好みに合わせた内容構成」や「日本での商品流通に融通の利く出版形態」なども、普及には必要であったでしょう。しかし、最も重要であったことは、おそらくは"日本人の手によるスタンダードが存在すること"自体であった筈なのです。卓上RPGがこの国で普及するためには、それが単なる"輸入品"であってはならないのですから。

"スタンダード"となるもの(作品でも商品でも)の存在が必要不可欠なのは、どのような分野でも同様です。それは、その分野が最初の成熟を遂げた証拠であり、それに関わる者にとっての拠り所とも安定感の基ともなるものです。またそれが国産であれば、安心感も更に充実するのは確かでしょう。(少なくとも他国の事情で供給が止まることは無くなります。)

また顧みるに当時の日本RPG界は、「D&D」に飽きた者たちが他の"標準"を求めていた時期でありましたから、「Roads to Lord」のような癖が無く、文庫本という出版形式で入手し易く、ネームバリューもあった国産作品「ソードワールドRPG」が"スタンダード"の座を勝ち得たのは順当なことでありました。

かくして、「ソードワールドRPG」が"スタンダード"であることは、順当かつ妥当なことであったのです。...そう、10年前は

3年間は何とも思いませんでした。6年たって、あれ?と思いました。9年、10年経ちました。で、思ったわけです。"何で、まだいるの?"と。「ソードワールドRPG」は10年持って良いゲームだったか?どうして10年も経ったのに、いまだに頂点にいるのか?後継者にその座を譲っていないのは何故なのか?と。

私のこのような思いはおかしいでしょうか?よろしい、予期できる三つの疑問について予め答えておきましょう。

問1:10年程度で標準が替わるなどとは急ぎ過ぎなのではないか?

卓上RPGはまだ歴史が浅く、ノウハウすら完成していない分野である。また、(コンピュ―タゲーム等と違って)特別な技術進歩の要も無い。遊び方にせよルールシステムにせよ、研究・発展の余地がいくらでも残されていることは、アメリカで毎年数多くの新しいルールシステムが出版されていることからも明らかである。日本でも10年の間様々な新しい試みが為されてきたではないか。卓上RPGの10年間は、"スタンダード"が替わるには十分すぎる時間である。

問2:そのアメリカの"スタンダード"はずっと「Advanced Dundeons & Dragons(AD&D、TSR社)」ではないか。「ソードワールドRPG」は日本の「AD&D」である。

「AD&D」は最もシェアの大きいゲームに違いないが、毎年どころか毎月のように新しい試みを貪欲にこなしてきたRPGでもある。舞台設定も複数あり、ひとつのRPGとは言い難い面もある。また、いつ一位を奪い取っても不思議ではないゲーム(Rune Quest、Vampire、Call of Cthulhu、Ars Magica、GURPS、Earthdawnなどなど)が多数次席に居ることも無視できない。「ソードワールドRPG」を単純に「AD&D」になぞらえることは出来ない。

問3:それだけ「ソードワールドRPG」が優れている、ということなのではないか?

億歩譲って「ソードワールドRPG」が世界で最も優れたゲームだとしよう、嫌だけど。それでも、ルールや背景世界には傾向や好き嫌いがある訳で、普及のためにも、他の選択肢は多く必要である。最高のゲーム(仮)ならば背景世界を増やすなどして、より多くの者にアピールすべきだが、そうなってはいない。それとも「ソードワールドRPG」式のファンタジーもまた、世界で最も優れたものなのだろうか?いずれにせよ、デザイナーたる者、より良い物を作るべく日々精進を続けるのは当然ではないか。少なくとも私は、日本のRPGに10年間進歩が無かったとも、そのための努力をしていないとも思いたくない。

問4:基本は手頃なものがひとつあれば良いのではないか?要は遊ぶ方が工夫すれば良いのだから。

"遊び手の工夫"というものは、ゲームならではの最低限の思考力などを別にすれば、究極的には不要のはずである。第一、遊び手に多くを要求するのはその分野が完成していない証拠であって、まずは誰もが容易かつ手軽に真髄を楽しめなくてはいけないし、かつ自由で奥深くなくてはならない。世のゲームデザイナーはそれを目指しているはずだ...そうでしょ?ひょっとしたら、いずれは一つの基本の上ですべてが解決する時代が来るかもしれないが、今はそうでないし...あと二億年乃至三時間は大丈夫である、多分。もちろん工夫は(私もしているし)素晴らしい事であるが、より良いものを求めるのも自然なことである。

以上、三つ...じゃない、四つの自問自答でした。数に弱くってね((C)モンティパイソン)。えぇと、話を元に戻しましょう。

要するに、「ソードワールドRPG」という自他ともに認めるであろうスタンダードが、登場後随分経つのに、次のスタンダードに世代交替をしていない。ひとつのゲームを評価するのではなく、日本の卓上RPG界全体を見た場合、この事実は非常に問題ではないか、と考えるのです。スタンダードの役割とは、その分野の中心軸となって安定と安心と共通理解の基盤となることがひとつ。しかしもうひとつは、その役割を果たしつつ、次の世代にその役割を渡すことです。もちろん後者はそれ自身だけではできないことですが、まったく関与できないものでもないはずで...。

「ソードワールドRPG」は、日本卓上RPG界黎明期のスタンダードという役割を十二分に果たしました。それも10年という永きに亘って。しかし誰もが望む"後継者"はいまだその姿が見えていません。

問:もし「ソードワールドRPG」の次のスタンダードが現れなかったら?

「ソードワールドRPG」はいずれ日本の卓上RPGと共に消えていくことでしょう。そして記録にはこう残ります。"日本の卓上RPGは「ソードワールドRPG」の時代に滅んだ"と。

第1~3回のまとめ

ここで各回の意味をまとめてみましょう。

第1回では、私と「ソードワールドRPG」の関係について明らかにしました。私の原点は「D&D」です。かのゲームにノスタルジー(郷愁感)を憶えていますが、終着点ではありません。「Rune Quest」も「ソードワールドRPG」も「クトゥルフの呼び声」も、通過点です。私は常に新しいゲーム、もっと面白いゲームを求めているわけです。しかし、これは私に限ったことではないでしょう。

第2回では、「ソードワールドRPG」のルール、その一部を私なりに解釈してみました。それが当たっているか否か、掲載後とてつも無い不安に陥りました(笑)が、このゲームが持つ"癖"の一端を指摘できたのではないかと思います。このゲームを"癖の無い"ゲームと評する声を聞いたこともありますが、"癖の無い"ゲームなどありません。重要なことは、"癖"を分析すれば、常に"それとは異なる癖"=新しい可能性が見えてくるということです。

第3回では、それがスタンダードであることを認めつつ、その在位が長すぎること、次のスタンダードの不在を指摘しました。如何に成熟した分野であっても、世代交替が無ければその活力は衰え、革命的転換が無ければ静かに消えていくこととなります。ましてや卓上RPGはまだ若い分野です。もっと派手な交替劇があっても良いようなものですが...?

さて、私は最初、"「ソードワールドRPG」は日本の標準的RPGに成り得ない"あるいは"そうすべきでない"と述べました。主たる理由は、第2回で述べた通り、それが持つ(と私が考える)"癖"が、万人向けではないと判断したためです。"標準(スタンダード)"は、その分野の"顔"となりうるものですから、偏った指向は参加者を限定し、市場の限界を狭めてしまいます。(本当は"RPG的ファンタジー"とでもいうべきものの問題も大きいのですが、割愛します。)

問:ちょっと待て、貴様さっき「癖の無いゲームなど無い」と言わなかったか!?

...ばれたか。

では、"癖のあるゲーム"によって"偏り"を無くすにはどうすれば良いのでしょうか?ひとつは、そのゲームに様々な指向性が共有されることです。しかし、それでも完全な解決は難しい。では、もうひとつは何か?それは、指向の異なる複数の代表作が同等に存在することでしょう。異なるルールシステム、異なるジャンル、異なるスタイル...様々な可能性の網羅が総体を平均化するのです。

...本当は「ソードワールドRPG」は現在通りで良いのかもしれません。"それだけが標準"で無ければ。他に、同等のライバルがあれば。他作品が「ソードワールドRPG」を少し変えた物や、そのパロディでなければ。が、そうでなければ私はやはりこう言うでしょう。"「ソードワールドRPG」を日本の標準的RPGとすべきでない"と。そうしても良い環境が整っていないのだ、と。

第3回の内容も絡めると、私が「ソードワールドRPG」について期待しているのは、もっと優れた後継者の出現、もしくは同等に優れたライバルの濫立です。それらは私たちに今以上の楽しみと刺激を与えてくれるはずですから。

ではそのような作品はどこから生まれてくるのでしょうか?「ソードワールドRPG」のデザイナーが今までの経験を元に新たなシステムを生み出すのか?異なる視点を持った別のゲームが現れ、スタンダードの座を勝ち取るのか?あるいは「ソードワールドRPG」に多面性を持たせつつ発展させるという試みもありえるでしょう。いずれであっても、それらの登場は卓上RPG界に新たな活気を吹き込み、更なる発展へと導くことでしょう。...「ソードワールドRPG」が数あるゲームのひとつに過ぎない私でも、その意義を認めた上で、次世代の日本人向けRPGを自分なりに模索しております。しかし、こと後継者については、「ソードワールドRPG」に慣れ親しんだ者であれば、おそらく私などよりもずっと的確にその長所と短所を分析し、今のそれに欠けている魅力の中にその姿を見出すことが出来るはずです。

日本卓上RPGの次世代を担うのは何か?それはまだ具体的には見えていません。「ソードワールドRPG」の世代がまだ当分続くのかもしれません。が、いずれ次世代にその座を譲った時、「ソードワールドRPG」は本当の意味で輝かしい姿を過去に刻み...そして私たちはもっと面白いゲームを楽しめるだろう、...そう思うのです。

...あなたは、「ソードワールドRPG」の今、そして明日に何を求めますか?