"テーブルトーク"批判 (1998年執筆)
本論考は、1998年3月15日と4月21日とに発表されたものです。文中の趣旨が、現在の筆者の考察とは異なる場合もありますので、ご注意願います。
"テーブルトーク"の意味 (1998年3月15日(日)執筆)
このサイトでは、人間同士で遊ぶロールプレイングゲームのことを「卓上RPG」と称している。以前、欧か米のどちらかで出した雑誌記事で、コンピュータRPGに対し"Table-top Role Playing Game"という語が使われていたのを読んだことがあった。それを直訳して用いているのである。
さて、我が国では「テーブルトークRPG」という語が同様の役割を担う語として普及している。私の記憶では、何かの雑誌記事での説明を読んだのが最初だったように思う。当時の資料もすでに手元にないため、確認はできないが、次のような記述があったように憶えている。
「コンピュータRPGに対して称する」「"テーブル"と"トーク(語る)"の合成語」「和製英語であって、欧米の人間には通じない」など。そも日本語の歌詞の間に英語が入っただけで抵抗を感じる私であるから、和製英語というのには非常に不快な感じがあって、当時から此の方、この呼称を使ったことはほとんど無かった。しかし、つい最近になって私は自分が勘違いをしていたことに気づいたのである。"テーブルトーク"という語は英語にあったのだ。
The Compact Oxford English Dictionary(2nd ed.,1991,Oxford Univ. Press)の「Table-talk」の項には次のような文がある。
Talk at table; familiar conversation at meals.In a general sense including ordinary conversation or gossip at the dinner-table;but now usually applied to the social conversation of famous men or of intellectual circles.ちなみに小学館プログレッシブ英和中辞典(第2版、小学館1987)では、
食卓での雑談[談笑,座談,話題]とある。
さしずめ、和製英語だったのは「テーブルトークRPG」だったのであろう。「テーブルトーク」自体をそうと思い込んだのは私の早とちりだったのである。
しかし、私はここでハタと考えた。この名称が発明された後の我が国「テーブルトークRPG」の展開は、文字通り"RPGのテーブルトーク化"だったのではないか、と。
すなわち、「その場・その時間を楽しく過ごすこと」を、いやそれのみを最優先としてきたのではないか?
私の体験や昨今の雑誌などから得た印象のみを頼りにしての仮説であるし、仮に真だとしても、それが悪いことでは決してない。しかし・・・しかし、その影で何か失われたもの、あるいは失われつつあるものがあるのかもしれない。それについて少し考えてみた。
"テーブルトーク"が捨てたもの (4月21日(水)執筆)
"テーブルトーク"と冠された我が国の卓上RPGは、その十年余りの歴史の末、「その場・その時間を楽しく過ごすこと」を最優先としてきた、というのが私の観察結果である。少なくとも、最も目立つ専門誌の誌面や、コンベンションなど多くの現場、あるいは様々な愛好家間での確認の場においては。
楽しさを求めるのは間違いではない。私が求めているものも「楽しさ」である。しかし、ただ「楽しければ良い」というセリフを繰り返すだけで、本当にそれが手に入るのであろうか?
近年「ノリ」という言葉がプレイの現場でよく聞かれるようになった。「ノリが良い」「ノリが悪い」というように使われるが、これがしばしば「楽しさ」と誤解されているように思われる。しかし「ノリ」という言葉で表される「調子や感性の共有」は、「楽しさ」とは言い難い。少なくとも万人が共有できる「楽しさ」ではない。
「ノリ」の中に見える「楽しさ」とは、例えるならば「流行りのバラエティー番組」におけるそれである。それにドップリつかってしまえば面白おかしく時間を過ごすことが出来る。しかし、その中に入り込めない者は「楽しさ」を得ることが出来ないのである。そのような「冷めた」者は「ノリが悪い」と非難される。
しかし私が卓上RPGの中に見出している「楽しさ」は、いわば「良質の娯楽映画」のそれである。多少の好みの差はあれど、誰にとっても面白いものでありうる。余所見をしないための集中力は必要だが、自分を合わせる必要は無い。
とはいえ、映画などのように一方的な提供ではなく、参加者全員からの働きかけによって構成されるRPGである。「ノリ」では無いにしても、「楽しさ」を得るためには別のものが各人に要求される。それは「上達」である。
卓上RPGを面白くするための「上達」。そしてそれに伴う努力や研鑚。これが"テーブルトークRPG"において捨てられてはいないか、あるいは軽んじられてはいないか。これが私の懸念である。
この懸念に、はっきりとした確証や根拠を提示できるわけではないことは白状しておかねばなるまい。このような不安を抱くに至った原因が何某かあるのは間違いないのだが、自分でも確認できないのである。しかし不安を消すこともまたできないので、話を進めることとする。
「上達」無しに得られる「楽しみ」が無いわけではない。しかしそれは最小限のものであって、ひとつの「趣味」として続けるのに充分なものとは言い難い。「上達」を伴いつつ、より大きな「楽しみ」をより多く得ることによって、卓上RPGははじめて永続的な趣味となりうるのである。他の趣味と同様に。
他の趣味分野と比較しても、卓上RPGほど多くの技術・知識が関与する娯楽は珍しい。学問や雑学として得られるあらゆる知識が、豊かな描写とリアリティを提供する。それを生み出すための基本的な想像力、相手に伝えるための描写力、受け取る側の理解力。コミュニケーションには話術の他に観察力も不可欠である。そしてこれらを臨機応変に活用するための機転、それらを積極的に使いこなす意志力、初対面の他者とも協力する協調性。その上、真に全員が楽しむためには、自己と全体との間での絶妙なバランス感覚(のようなもの)が要求されるのである。(これらの技術を得た者は現実の社会でも楽しむことが出来るだろう。卓上RPGの熟練者は社会を制すのである。)
「たかが娯楽、たかが趣味」のために「上達」を要求されることに抵抗を感じるものがいるであろうか。しかし「楽しさ」を得るための「上達」ほど楽しいものはない。それによってより上の「楽しさ」を得たときだけではない。「上達」のために積む努力・研鑚自体が楽しいのである。
「(今が)楽しければ良い」という言葉の裏に、「楽しかったと言っておけば良い」「楽しくないと言ってはいけない」という含みを読み取ってしまうのは私の勘繰りすぎなのだろうか。