ゲームをプレイするためのロール (1997年執筆)
本論考は、1997年6月27日に発表されたものです。文中の趣旨が、現在の筆者の考察とは異なる場合もありますので、ご注意願います。
「ロールプレイ」についての一考察
はじめに
「ロール」とは何でしょうか。この問いは「卓上ロールプレイングゲームとは何か」という疑問に直結しています。
この問題は、特に初心者に「ロールプレイングゲーム」とは何かを説明するために、既に様々な先達によって説明が試みられてきました。その中で最も一般的な解釈は、「役を演ずるゲーム」でしょう。しばしば演劇や映画に喩えられるこの説明においては、「ロール」とはキャラクターの役柄であり、「プレイ」とはそれを演ずることであり、それを「ゲーム」として楽しむ、と解釈されています。
しかし私はずいぶん以前からこの説明に、そしてその説明に基づいた「ロールプレイ」というものに疑問と反感を抱いていました。「役を演じる」という行為に抵抗があったこともありますが、その役柄を見事に演じようとする者たちの姿を面白く好ましいものとして感じたことが一度も無かったのが最も大きな理由です。
その後も私の「ロールプレイ」についての試行錯誤が続きましたが、昨今ようやく手がかりらしきものの感触を得ることができました。以下に私の体験から導き出された「ロールプレイ」に関する私論を展開しますが、その中で次の三つの主張に至った過程を明らかにしたいと考えています。
- ロールとは、キャラクターがその舞台で果たすべき「役割」である。
- キャラクターの「性格」や「背景」は、重要ではない。
- セリフばかりのプレイは、「ロールプレイ」ではない。
考察
ロールプレイングゲームが演劇に喩えられたのは最も初期の頃であったと憶えています。私が最初にこのゲームを知った時の説明もそうでした。その喩は分かり易いもののように思えました。しかし今になって考えると、その喩を用いると同時に、両者の違いをもっと明らかにすべきであったと考えます。
(ロールをプレイするためのゲーム)
RPGが演劇のようなゲームであるという認識は、「ロールプレイ」というものを「演技」に近いものであるという感覚を育てたと考えます。その感覚は、キャラクターの性格や背景を設定することと、それを反映した行動をどれだけ上手く表現するかということが、RPGの本質であるという考えを生み出しました。特に後者においては、そのキャラクターのセリフを、プレイヤーがその本人であるかのように感情を込めて語るというのが「ロールプレイ」であるというような誤解すら生んだ感があります。
そのような考えは、ダンジョン探索や戦闘と宝物獲得を主とするプレイを初歩的なものとして追いやり、「演技」こそRPGを他のゲームとの間に一線を画さしめる特徴であるとする潮流を生みました。それは「ロールをプレイするためのゲーム」でした。ゲームは、ロールをプレイする=役柄を演じる場を与えるための口実のようなものでした。
しかしそのようなプレイでは、いかに自分のセリフを言うか、人に聞いてもらうかが問題となります。セリフが本当に味を出す場面は必ずしも多くはありません。少ないチャンスは、最初にあるいはより大きく声を出した者が勝ち取る傾向があります。「ノリ」と称されるものが性に合わない者、消極的な者、馴れていない者、あるいは「無口」なキャラクターを演じる者にとっては極めて不利な競争です。かくして「ロールプレイ」は騒音と奇声に彩られた喧燥の世界に。
(ゲーム)
もう一度、ロールプレイングゲームがどのようなゲームであるかを再確認しましょう。基礎を固めるのは、いつ、何度行っても有用なことです。
RPGは「ゲーム」です。但し「競争」の意味ではなく「遊戯」としてのそれです。まずこの事こそが絶対に譲ってはならない事実だと私は考えます。そして、ゲームとは参加者全員が楽しい時間を共有して過ごすものです。これは誰もが言うことです。しかしここが出発点であることを忘れてはなりません。物事に慣れた時に一番気を付けなければならないのは、初心を忘れることです。
ただ楽しければ良いというものでもないでしょう。RPGでなければできない時間の過ごし方であることが肝要です。雑談や駄洒落の応酬も、時には息抜きになるでしょうが、わざわざプレイ時間を削ってまでそれをやる必要はないでしょう。
ここで、RPGの楽しみについてまとめてみましょう。
- 共通の仮想世界を設定し、参加者全員がその世界を想像する。そこを舞台に、プレイヤーは自分が担当する仮想人格(キャラクター)を操り、マスターはそれ以外の複数の人格やその世界における自然・社会現象を管理する。
- マスターはその世界で興味深い事件を起こす。プレイヤーはキャラクターをその事件に関与せしめ、その中で己の行動を決めていく。
- 事件の展開は異なる人間の判断によって変化するため、参加者の誰もが関与しながら、誰も一人で展開や結末を決定することはできない。即興的な自らの行動と予期できぬ事件の展開を楽しむ。
これは私の考えですが、それほど間違ってはいないつもりです。そしてゲームである以上一番重要なのは、「参加者全員で楽しむ」ことです。
(ゲームをプレイする)
「ゲームをプレイする」とは、「ゲーム(=遊戯)を楽しむ」ことであると私は考えます。RPGでしか楽しめないことを、参加者全員で、楽しむのです。その楽しみを阻害する要素はすべて邪魔なものです。
先述したように、「ロールプレイ」を「役柄を演じる」と解釈した者がいました。それが全くの誤りであるわけではありません。確かに「演じる」ことも楽しみの一部だからです。しかしそれは無くても良いものであって、無いよりもあった方がより面白くなるかもしれない、という程度のことです。プレイヤーがキャラクターを本当に面白いものとして演じることはまず無理でしょう。演技の経験の有無を問うまでもありません。衣装も舞台もなく、ただ座ったまま声真似をするだけなのですから。
そもそも「キャラクターの心情になりきる」ことや「キャラクターを描写する」ことと、「キャラクターの真似をする」こととは別なことです。「キャラクターの真似をする」ことの好きな者が気を付けるべきことは、その者の演技が相手にとって愉快である可能性、またそのキャラクターの行動が他に理解される可能性は、共に低いということです。素人同士である以上当たり前ですから、常に相手の反応に注意すべきでしょう。私の経験から言うと、特に声真似を中心としたキャラクターの真似に没頭すると、自己陶酔し周りが見えなくなる傾向があるようです。また、真似をすることが好きな者は、相手にもそれを求める傾向があります。自分だけがそうするのが恥ずかしいせいか、それが最高のプレイだと信じているせいか知りませんが、これも相手にプレッシャーを掛け不快にする可能性があります。
プレイヤー(マスターを含む)には、自分が楽しむ権利があります。しかしそれと同等に、他のプレイヤーを楽しませる義務もあるのですから、周囲の反応には常に注意し、相手に不快を感じさせることは極力避けるべきでしょう。
(ゲームをプレイするためのロール)
「ゲームをプレイする(=遊戯を楽しむ)」ための「ロール」とは何でしょうか。
「演技」の対象としてのロールを決めるものは、キャラクターの性格・能力・社会的地位・半生などの背景設定です。これらの要素は、それらから類推され形成された仮想人格が、マスターが操るキャラクター(NPC)からの働きかけ等のシナリオ内現象に対する反応を決める際の材料・根拠となります。しかしそれは受動的な「反応」であって、能動的な「行動」を決めるものではありません。
上記の要素以外に、キャラクターの「目標・目的」は能動的な行動を決める根拠となります。しかしこれには問題もあります。それは、キャラクターの視点から用意されるため、必ずしもシナリオと整合性のあるものになると限らないことです。また他のキャラクターとの関係で問題を起こす場合もあるでしょう。それもRPGの楽しみの一つであるという意見もありますが、「ゲームを楽しむ」ための邪魔となる危険性は否定できないと考えます。
私は「ロール」とは、「役割」という訳語が一番近いであろうと考えています。それは「舞台となる仮想世界およびキャラクター集団の中において、その仮想人格が果たすべき役割」です。「目標・目的」と似ていますが、プレイヤーの視点で決定されるという点が違いです。
次に幾つかの例を挙げます。
- ある若き戦士の場合:役割=悪者を倒すこと。目標=手柄を立てて女王に仕える騎士になること。
- ある私立探偵の場合:役割=強い悪者に翻弄される弱い善人を助けること。目標=金を儲け、大物と知り合いになって豪勢な暮らしをすること。
ゲームシステムによっては、ある程度「役割」が決まっている場合がありますが、それを了解した上で少しひねると面白い効果が得られます。クトゥルフの呼び声の場合を例にとると、次の如しです。
- ある考古学者の場合:役割=古き神の復活を妨げること。目標=大発見をし、学会で注目を浴びること。
- ある医者の場合:役割=禁断の医学の魅力と良心との間で板挟みになること。目標=将来大病院の院長となること。(あまりPC向きではないかな?)
キャラクターを操るプレイヤー自身がシナリオの中で果たしたい役割、といっても良いでしょう。プレイヤーにとっての「目標・目的」であって、当然キャラクターのそれよりも優先されます。別の言い方をすれば、それはキャラクターにとっての「運命・宿命」といっても良いものです。
「役割」は他のプレイヤーに秘密であるべきではありません。むしろそれを了解しておくことで、互いのプレイを理解し合い、協力することが容易になるでしょう。例えばキャラクター同士がその「性格」や「目標」のせいで対立したとしても、プレイヤーが互いのキャラクターの「役割」を理解した上でなら、その対立を存分に楽しむことができるでしょう。
もちろん「性格」や「目標」なども重要な要素です。「役割」は大局的な行動に表れるものであって、一つ一つの行動やセリフを決めることには使い難いので、プレイヤーとキャラクターがほぼ同じ設定でない限り、他の要素も必要です。しかし他の要素は二次的なものとして「役割」を中心として設定されるべきでしょう。二次的要素をすべて設定した後で「役割」を考える場合も、中心にあるのは「役割」となります。
「役割」を明らかにせずに「性格」「背景」「目標」などにこだわると、プレイに弊害が生じます。後者は全てキャラクターに所属する要素ですから、それに没頭する内に「プレイヤー同士で楽しむ」ことを忘れてしまう恐れがあるのです。プレイヤーの目標が、自分のキャラクターを表現することに限られてしまうのは好ましいことではありません。
結論
以上の考察を要約したものが、最初に挙げた私の三つの主張です。
1、ロールとは、キャラクターがその舞台で果たすべき「役割」である。
ロールとは、その舞台となる仮想世界や仮想人格集団の中において、そのキャラクターの大局的な行動を決定するための指針=役割であるべきです。これは、「キャラクターがやりたいこと」よりも、まず「プレイヤーがやりたいこと」を決めることを意味しています。
2、キャラクターの「性格」や「背景」は、重要ではない。
極論を言うと、「役割」さえはっきりしていれば、「性格」や「背景」なしでもRPGを楽しむことはできます。それらはキャラクターの説明や味付けなど、補佐としての設定であり、二次的なものです。もちろん、あればより味のあるプレイとなるでしょう。
3、セリフばかりのプレイは、「ロールプレイ」ではない。
セリフはキャラクターの行動の一部ですが、「どのようなセリフを語ろう」と考えることはキャラクターの行動にはつながりません。状況を把握し「次に何をしようか」と考えることで行動は決まります。最後に選択を決めるための軸となるのはキャラクターの「役割」=プレイヤーの目標です。もしプレイヤーの発言が長く「キャラクターのセリフ」のみであったら、その者たちは次の行動を考えつかないのかもしれません。
また、行動を即決できるプレイヤーであったとしても、口からセリフばかりが漏れてくるようではやはり問題です。行動よりもセリフに重きを置いた描写は、他の者にとって極めて分かり難いものです。分かり易いと思っているのは、気持ちよく語っている本人だけでしょう。セリフは行動描写の一部であるべきです。
趣味とはある意味時間の無駄を楽しむものですが、自己陶酔的なセリフを語り合いかつ聞き合うのがRPGの主旨ではないと考えます。
以上のことから、「ロールプレイングゲーム」とは「役割を楽しむ遊戯」であると私は考えます。このゲームを楽しむために最低限必要なのは、キャラクターに必要以上にとらわれることなく、「プレイヤーがどのように楽しむか」を常に追求し、またそれを参加者全員で共有することなのです。
結論の後に来るもの=具体的な実行手順
上の論に基づき、「役割」を中心としたキャラクター形成の一手順を次に述べます。
1、キャラクターの「役割」を決める。
プレイヤーが、そのゲームの中でどのような役割を果たしたいか、大局的にどのような行動をキャラクターにさせたいか、ということを決めます。
それは、その世界およびその集団の中でキャラクターが行うことであって、実現の可否に関係なく断言の形で挙げて良いでしょう。とは言うものの、ルールシステム上不可能なほど誇大になると、ただの妄想家を操ることになるかもしれません。
私の経験から考えるに、正統的かつ常識的な「役割」=「悪を倒す」「弱者を守る」「仲間を助ける」など、善や正義の側に属するものの方が、自分にとっても他の参加者にとっても、扱いやすく楽しみやすいものとなります。もし奇をてらうならば、次に決める「性格」などを工夫すると良いでしょう。
2、PCの性格や背景を決める。
前に決めた「役割」に留意しつつ、キャラクターの「能力」「社会的地位」「それまでの半生」そしてそれらから形成された「性格」を決めます。これらを決めてから「役割」を決めることもできますが、「役割」がはっきりしてからの方が、仮想人格を膨らましていくことができます。
「役割」と「性格」等の設定との関係が、そのキャラクターのプレイに幅を与えます。
- 両者が合致している場合=「性格」等が「役割」の理由付けとなっている。→安心感のある典型的なプレイ。
- 両者が合わない場合=「性格」等が「役割」と矛盾している。→二面性を秘めた興味深いプレイ。
- 両者があまり関係ない場合=「性格」等が「役割」に影響を与えない。→ただの味付け。「性格」等の反映は、本筋と関係ない時に表れる。
3、他のキャタクターと関わる
これはプレイが始まる前でも、始まった後でもそうですが、他のキャラクター(PCとNPCの双方)と積極的に関わり合っていくことです。関わり合い方には次のような方法があります。
- 関係を設定する。=親戚や友人となるということではなく、互いがどのような知り合いなのか、相手にどのような感情を抱いているか、などをプレイヤー同士で話し合い、設定する。
- 協力し合う。=各々が得意とする行動を積極的に使い合うだけでなく、他者の設定を知った上で互いの人脈等も活用する。
- 互いの行動に反応する。=あるキャラクターが行動したら、自分の「役割」を考慮した上で、その行動にも関わっていく。これはセリフに対してセリフを吐くのではなく、行動に対して行動に出るということです。
おわりに
私は「配役を演ずることとしてのロールプレイ」に反感と疑念を持っていました。今、私がやりたかったことが「役割を遊ぶこととしてのロールプレイ」であることに気づき、以上の論にまとめました。
前者の「ロールプレイ」が典型的に表れるのは、セリフの応酬が中心となったプレイであると考えます。そのようなプレイが現在巷間で最も多くプレイされているように思えます。それはおそらくリプレイの影響が大きいものと考えられます。私が読んだリプレイの多くは、キャラクターとプレイヤーのセリフが同一化し、そのセリフのやり取りに多くのページが割かれていました。また、アニメーションの影響も大きいと思われます。私はアニメーションには詳しくないのですが、絵が持つ技術上の理由から、派手だが単調な行動の代わりにセリフがしばしばストーリーの軸となっている点が共通しているように感じられます。これらの因果関係についてはもう少し研究の余地があります。
プレイ中の発言を基本的に「キャラクター発言」とし、「プレイヤーとして」と断りを入れてからキャラクターから離れたものとして自分の考えを言うプレイヤーがいますが、私はこれには賛成しかねます。むしろ逆にした方がキャラクター描写は成功しやすいと思いますし、プレイヤーの視点からの方が楽しめると考えます。キャラクターになりきるプレイヤーは、自分だけで楽しんでいないかどうか再確認した方が良いのではないでしょうか。
私は「役割」の確認が意識的に行われることが楽しいプレイに近づく手段であると確信していますが、実はそれが行われなくても楽しいプレイが可能となる場合があります。その例外とは、友人同士でプレイする場合です。元々の友人が集まってプレイする場合には、すでに互いに楽しみ楽しませることが不文律となっています。ですから、わざわざ「役割」を了解しておかなくても問題が少ないのです。逆に、ゲームを目的として集まった者や面識の無い者同士がプレイする場合には、「役割」の確認が楽しいプレイにつながるはずであると考えます。
以上が、よりロールプレイングゲームを楽しむことを目標として展開した、私なりのプレイ論です。これを目にした方がこれを契機にロールプレイというものについて再検討し、その上で反論・異論等をお寄せいただけましたら、幸甚に存じるところです。