TRPGはゲームではない、と考えてみる
TRPGはゲームですよ、もちろん。当たり前でしょ?
「もちろん」で「当たり前」な論説を、「定説」と言います。そして「定説」は、しばしば間違っています。それが、誰も批判しなかった「虚構」である場合には。そこで今回、「TRPGはゲームではない」という可能性を考えてみます。「皆で楽しむ」ために(後述)。
では、「ゲームでないTRPG」とは何か。TRPGを「コミュニケーションが大切なゲーム」とする見解は、広く共有されていることと思われます。今回はこれを転じて、TRPGは「ゲームの形式をとったコミュニケーション」である、と仮説を立てて、両者を比較してみます。
定義。「ゲーム」とは、「何らかの結果を目指して、既定のルールに従って行動し、その体験を得ること」とします。これなら将棋やカードゲーム、野球やサッカーなどのスポーツゲームまでも含めることができます。「コミュニケーション」とは「会話などによる意志疎通」ですが、ここでは特に、それによって「親交を図る」こととします。「殺し合うコミュニケーション」は扱いません。
まず、TRPGを「コミュニケーションが大切なゲーム」とする場合。そのコミュニケーションは、ゲーム内の情報を正確に伝え合うことで、「私が楽しいゲーム」を実現するためにとられます。「私が楽しい」と思わなくても、他の参加者とコミュニケーションさえとれれば良い、とはなりません。
「私が楽しいゲーム」の内容は、多種多様です。「ルールシステムを駆使して敵を倒すこと」「情報を集めて謎を解くこと」「自分が担当する人物を上手く演出すること」「そのゲーム特有の雰囲気に浸ること」「現実ではできない行動を選択し、体験すること」「シナリオで期待される役割を果たすこと」などの、どれをどれくらい好むかによって。
コミュニケーションによって、自分の「私が楽しいゲーム」を他の参加者に伝え、また他の参加者のそれを探ります。参加者全員の「私が楽しいゲーム」が共存できれば、理想的な環境です。どうしても共存できなければ誰かが、あるいは全員が「楽しくない」思いをします。その場で「楽しそう」な振りをできたとしても、不満は残るでしょう。
「コミュニケーションが大切なゲーム」におけるコミュニケーションとその相手とは、「私が楽しいゲーム」を得るための道具です。得られなければ、コミュニケーションは「無駄だった」ことになります。「私が楽しいゲーム」を事前に共有できている相手と遊ぶのに、最も向いています。
次に、TRPGを「ゲームの形式をとったコミュニケーション」とする場合。ゲームに関わる一切は、参加者間でコミュニケーションをとって「親交を図る」ためにあります。この場合、十分なコミュニケーションがなく、「親交を図る」ことができなくても、ゲームさえできれば良い、とはなりません。
あらゆるゲームで、「ゲームの形式をとったコミュニケーション」は行われています。囲碁や麻雀、対戦ゲームや協力ゲームを誰かと一緒にやること自体が、やったゲームの内容や結果よりも大切なことがあります。それは主観としての「実態」なので、経験したことが無くて「分からない」人もいるでしょう。
「分からない」人のために。「私が楽しいゲーム」で無いことは、「私」を殺すことでは無く、欲する楽しみを捨てることでもありません。いつもの仲間であれ、一期一会の相手であれ、誰かと時間や場所、行為を共有することに、人は悦びを得ます。それは、人と人とが集う場に、集っている間にだけ生じる快楽です。...説明しても、やっぱり「分からない」わな、「分からない」者には。主観だから、仕方ない。
「ゲームの形式をとったコミュニケーション」における「ゲーム」は、コミュニケーションの相手と「親交を図る」ための道具です。「親交を図る」ことができなければ、そのゲームは「無駄だった」ことになります。相手の「私が楽しいゲーム」をよく知らないなら、こちらで遊ぶ方が無難です。
さて、ここでようやく「皆で楽しむ」という行動について。それは「ゲームの形式をとったコミュニケーション」と、ほぼ同義です。
定義。「楽しむ」とは、行為から「楽しい」という結果を得ることではなく、行為そのものを悦びとすることです。結果が快楽や勝利など「楽しい」ものであっても、苦痛や敗北など「楽しくない」ものであっても、そこに至るまでの過程を悦ばしいものとして受け入れます。そして「皆で楽しむ」とは、複数の者が同じ行為に参加して、全員が同じ行為に関わったという事実を悦びとすることです。
「楽しい」状態を「成功」とすれば、そうでない状態は「失敗」となります。しかし「楽しむ」という行動に、「失敗」はありません。あるのは、「する」か「しない」か、だけです。室内ゲームであれスポーツであれ、「勝てそうだから戦う、負けそうだから戦わない」なら、「楽しむ」ことはできません。「楽しむ」者は、勝っても負けても「楽しむ」のです。
結論。TRPGは、他の「ゲーム」と同じように、「コミュニケーションが大切ゲーム」として「私が楽しい」ゲームを目指すことも、「ゲームの形式をとったコミュニケーション」として「皆で楽しむ」ことも、どちらでも遊ぶことができます。「楽しい」か「楽しむ」かの違いにおいて、どちらを選ぶかは、遊び手次第です。
以上、「虚構」三論考の二本目。
予告。一本目の冒頭で述べた、「虚構」は「宗教」です、について次回述べます。「宗教」は常に「善」である、その害悪も語る予定。
余談。「皆が楽しい」という「虚構」によって、見知らぬ相手とも「コミュニケーションが大切なゲーム」を成立させることが可能です。例えば、プロの見解やリプレイ(動画)のようであれば「皆が楽しいゲーム」であるとし、参加者全員に「私が楽しいゲーム」を捨てさせるのです。「私が楽しい」は「私だけが楽しい」ことであって、それは「悪」だ、などと。
余談。「楽しませる」という行動があります。受動的・消極的・依存的に「私が楽しい」を欲する相手に、それを与えようとする行為です。努めたところで、相手が事実「私が楽しい」か否かは分かりません。「楽しませる」のが良い、という「プロパガンダ」に乗ると、相互依存の地獄に陥ります。それを「楽しむ」ことは可能ですが、苦行です。苦行が好きな人もいますけどね。