褒めることを公然と勧めるのが最悪なのは何故か
既に述べたように、ある行為について「褒められるとモチベーションが上がる」(=褒められないと上がらない)のは、その行為へのモチベーション(動機を与えるもの)が低い者に限られます。本当に「モチベーションが高い」者なら、褒められるくらいではモチベーションは変わりません。が、魅力や権威のある人物から「褒められたい」と望むようになれば、むしろ本来高かった「モチベーションが下がる」こともあります。
「褒めよう!」と公然と勧めることは、「褒められたい」者にも「褒めたい」者にも、それらに興味が無い者にも、大なり小なり悪い効果を及ぼします。あらゆる者にとって害悪なので、「最悪」なのです。以下、その理由。
「公然と」とは、「推奨されたことが、褒める側にも褒められる側にも事前に分かるように」ということです。次の三事例の内、二番目が「褒めることを公然と勧める」例です。「社長、上司、部下」は、「校長、教師、生徒」や「教育学の先生、親、子」、上下関係のない三者であっても構いません。
- 上司が部下Aを褒めた。部下Bのことは叱った。部下Cには何も言わなかった。
- 社長が上司と部下たちの前で「上司は部下をどんどん褒めましょう!」と訓示した。その後、上司が部下Aを褒めた。部下Bのことは叱った。部下Cには何も言わなかった。
- 社長が上司と部下たちの前で「上司は部下を褒めてはいけません!」と訓示した。その後、上司が部下Aを褒めた。部下Bのことは叱った。部下Cには何も言わなかった。
部下ABCが「褒められたい」者なら、各事例での「褒められた喜び」にはどのような差異が生じるでしょうか。また「叱られた悲しみ」は、そして「何も言われなかったこと」は?
二番目の事例では、社長から上司に「褒めることが推奨された」ことを、部下も知っています。上司が本心から褒めるにせよ「推奨されたから仕方なく褒める」にせよ、部下が「褒められる」のは特別なことではなく、むしろ「褒められて当たり前」となります。このような状況では、推奨の無い一番目の事例と比べて「褒められた喜び」は減少しますから、「褒められるとモチベーションが上がる」効果も弱まります。このようにして「褒めることを公然と勧める」ことは、「褒められたい」者に悪い効果を及ぼすのです。
行動心理学(行動分析学)では、事前に環境を操作することで「強化」(reinforcement)の効果を強めたり弱めたりすることを、「確立操作」(establishing operation)と言います。そのひとつ「飽和化」(satiation operation)は、報酬となりうるものを多く与えておき、それが「強化」する効果を弱めることです。満腹な者にとっての食物のように、「褒められる」という刺激に慣れ、「褒められて当たり前」な環境下にいる者は、「褒められる」ことでは「強化」され難くなるのです。
「飽和化」には、相反するものによる「強化」の効果を強める働きもあります。「褒められて当たり前」なら、「叱られた悲しみ」は強くなり、「褒められない」ことにも不安や恐怖を覚えるようになります。いつも褒められるのに今回は褒められない、みんな褒められたのに自分一人だけ褒められない、と想像してみて下さい。この場合、「褒められない」ことはゼロ評価ではなく、マイナス評価なのです。ましてや「叱られる」などとは!
「褒めることを公然と勧める」ことは、「褒めたい」者にも悪い効果を及ぼします。そもそも「褒められて当たり前」で、「褒められた喜び」が減っているのでは、褒め甲斐がありません。「仕方なく褒めた」と思われないほど上手に褒めることも可能でしょうが、相応の努力が必要です。一番目の事例なら容易に得られる「褒めた相手が喜んでくれる姿」は、二番目の事例ではよほど努力しないと得られません。相手を操作したいだけなら、この場合「褒められない恐怖」を利用した方が効果的です。
「褒めることを公然と勧める」ことは、「褒められることに興味が無い」者にも悪い効果を及ぼします。「褒められることに興味が無い」者は、まったく褒められなくても気にしませんが、どれほど上手に褒められても大して喜びません。「仕方なく褒めた」と思われたくなくて上手に褒めようと努力している者の目には、その姿は「誠意が通じない、努力を認めない」不愉快な人物として映ります。募った不満を爆発させるにしても、それを防ぐために懐柔するにしても、面倒な顛末となります。
「褒めることを公然と勧める」ことは、「褒めることに興味が無い」者にも悪い効果を及ぼします。「褒めることに興味が無い」者は、誰も褒めません。「褒めることが公然と勧められている」場合、それは「褒められない恐怖」を与えることですから、「褒められたい」者たちは憎悪すら抱きかねません。興味が無いのに「仕方なく褒める」のも、余計な負担となります。
なお、上記三番目の事例で行われているのは、「遮断化」(deprivation operation)という「確立操作」です。「褒められないのが当たり前」になれば、「褒められる」ことで「強化」される効果は強められます。幾つかの「確立操作」が同居する場合、より強いものが影響を与えます。例えば、親や教師から褒められた経験がほとんど無かった(遮断化)者なら、「褒めることが推奨された」(飽和化)としても、「褒められる」ことでの「強化」は弱まりません。
さて、このように誰にとっても有害な「褒めることを公然と勧める」ことですが、その推奨者にのみ良い効果があります。その良い効果とは、次の通り。
- 推奨者が「褒めることを公然と勧める」ことで、「褒められたい」者や「褒めたい」者を集めることができる。その集まりは「優しい共同体」として、「良い雰囲気」の中に推奨者を暖かく迎え入れてくれる。
- 「褒めることを公然と勧める」推奨者は、「褒められたい」者や「褒めたい」者からの賞賛を得ることができる。このような共同体を有難がる者にとっては、安心して「褒め、褒められる」のは推奨者のお陰なので。
- 「褒めたい」者に「何を褒めれば良いのか」、「褒められたい」者に「褒められるにはどうすれば良いのか」を説くことで、その共同体での主導権を握ることができる。できなくとも、文句を言われる恐れは無い。
例えば、上意下達が専らな会社では、社員がモチベーションを高めることは困難です。そういう会社を、社長が「褒めることを公然と勧める」ことで、上司が部下を頻繁に褒める「優しい共同体」に仕立てることができます。そうすることで、会社の誰もが「褒める」「褒められる」環境を維持するために、社長には逆らわなくなるのです。やたら「叱られる」よりはマシかも知れませんし、元々モチベーションが低い者なら、せめて「褒められれば嬉しい」のかも。
「優しい共同体」であっても、いや「優しい共同体」であるほど、そこで共有されている価値観に疑義を示すのは危険です。「みんな」と異なる見解は、「理解できない」(したくない)考えとして、非難や嘲笑あるいは排斥の対象とされます。モチベーションが高い者ほど、素朴な疑問というか、余計なことを言ってしまうんですけどね。
ところで、「褒められる」こと「褒める」ことを「善いこと」とする信仰は、幼い頃に親から褒められた経験(善いマインドコントロール)に根差している、と考えられます。それを否定したくないので、「無批判に」肯定してしまうのです。大人になっても「批判」ができないと、「悪いマインドコントロール」に引っかかり易くなりますが、「優しい共同体」では従順な方が生き易いのも事実ですが。
最後に。誰かを「褒めたい」とも誰かに「褒められたい」とも思わない無愛想な私(鏡)ですが、本当に感銘を受けた場合には、つい褒めてしまうことがあります。うっかり本音が出ただけなので、勘弁してください(遮断化)。「反省会」と「確立操作」の関係は、長くなりそうなので省略。
以上、「褒められる」こととモチベーションとの関係は、今回まで。今後このカテゴリーでは、卓上RPG(TRPG)におけるモチベーションについて論じる予定です。今回学んだ心理学の知見は、今後の考察でも役立つでしょう。