「冬の時代」という虚構
言葉は、しばしば虚構(fiction)を含みます。虚構を含んだ言葉を無批判に受け入れた者は、その虚構によって発想が縛られ、思考や行動までも操られます。「TRPG冬の時代」などの「冬の時代」というのは、虚構を含んだ言葉のひとつです。
人間社会における、ある厳しい時期を「冬の時代」と呼ぶことは、次のような虚構を顕します。
- あたかも四季が巡るように、いずれ厳しい「冬の時代」がやってくる。
- 「冬の時代」が過ぎ去った後は、恵み深い「春の時代」がやってくる。
- この循環は、自然現象のように、工夫や努力で避けることはできない。
これらは「盛者必衰の理」に通じ、日本人に受け入れられやすい虚構かも知れませんが、現実とは異なります。四季以外のことが四季のように循環するわけではありませんし、厳しい時期の到来は決して自然現象ではありません。「冬」が来ない場合もありますし、「冬」の後に「春」が来ないこともあるのです。
「冬の時代」という虚構は、概ね次の三通りに用いられます。社長が社員に言う場合を想定して。
- 未来を「冬の時代」と呼べば、警告。「我が社は遠からず冬の時代を迎える」と語る社長は、社員に気を引き締め、「春」まで耐えられる態勢づくりを促している。
- 現在を「冬の時代」と呼べば、希望。「我が社は今、冬の時代にある」と語る社長は、社員に希望を捨てずに力を合せ、共に「春」まで耐え抜こうと鼓舞している。
- 過去を「冬の時代」と呼べば、安心。「我が社はかつて冬の時代にあった」と語る社長は、社員に今は恵まれた「春」なのだと言い聞かせている。あるいは、冬を耐え抜いた自分を誇っているのかも知れない。
各々の例における「冬の時代」を、「停滞」「衰退」「滅び」などと言い換えれば、両者の違いが分かります。「我が社は遠からず滅びる」「我が社は今、停滞している」「我が社はかつて衰退していた」と言った社長は、その責任を問われるでしょう。それが「冬」なら誰の責任でも無く、いずれ「春」になるまで待てばよい。更には、次の「冬」になるまで。
さて、「TRPG冬の時代」という虚構(fiction)ではどうでしょうか。あれは本当に「冬」だったのか、今は本当に「春」なのか。いずれまた「冬」が巡ってくるのか、避ける方法はあるのか。それらを自分の頭で考えるのか、どうせ遊びなのだからと虚構を信じるのか?