RPG世代論を解釈する主義
「RPG世代論」とは、ゲームシステムの特徴やゲームプレイの傾向を、「第1世代」「第2世代」などと分類するものです。分ける基準や、何世代に分けるかは論者によって様々です。何故なら、論者はしばしば、自分を最終世代として、その正統性を訴えようとするからです。
ここで「マルクス主義」を持ち出すと、その「唯物史観」(唯物的歴史観)は次のようなものです。
社会は、政治や文化などの「上部構造」と、経済力や生産力などの「下部構造」とに分かれる。「下部構造」に合わせて「上部構造」が成立するが、成立した「上部構造」は「下部構造」の変化を拒み、支配し続けようとする。「下部構造」に属する階級は、「上部構造」の階級を倒して改める(階級闘争)ことで、社会はより理想的なものに変えていかなければならない。階級闘争による「革命」は歴史的必然であり、なされねばならないのだ。
これを無理矢理「RPG世代論」に当てはめると、次のようになります。
TRPGは、提供されるゲームシステムやゲームプレイ(上部構造)と、現場のゲームマスターやプレイヤー(下部構造)とに分かれる。現場で求められる楽しみに合わせてゲームシステムなどが提供されるが、同じゲームシステムでは楽しみの変化に対応できない。新しく発売された次世代TRPGに誰もが乗り換える(階級闘争)ことで、ゲームプレイをより楽しいものに変えていかなければならない。それは歴史的必然であり、なされねばならないのだ。
うん、無理矢理。
ところで、前回述べた「本質主義」「実存主義」「構造主義」の三者を「ポスト構造主義」をそれぞれ卓上RPGに当てはめると、「RPG世代論」っぽくなります。
- 「本質主義RPG」では、キャラクターには「本質」即ち「あるべきキャラクター像」があり、その通りに遊ぶのが良い。戦士は戦士らしく、パン屋はパン屋らしく。あるいは、プレイヤーはこうすべきと思うけれど、キャラクターの性格などが合わないので、そうしない、とかも。クラス制や、舞台がダンジョンなどに限定されているクラス制のゲームシステムが、これに向いているかもしれない。
- 「実存主義RPG」では、キャラクターには「実存」即ち「今あるキャラクター」しかないので、自由に責任をもって遊ぶのが良い。戦士は、職業によって戦士なのではなく、行動によって戦士になる。キャラクターの性格なども、行動の累積から生じる。シナリオなど行動のきっかけに過ぎないぜ、ヒャッハー。スキル制や、世界設定の豊富なゲームシステムが、これに向いているかもしれない。
- 「構造主義RPG」では、ゲームプレイは「構造」即ちストーリーの「お約束」に従うのが良い。キャラクターは「お約束」に合わせて作られ、その行動も「お約束」通りであるべき。「お約束」は誰もが共有している筈だから、「シナリオブレイク」は無法で許し難い。クラスでもスキルでも、「FEAR型ハンドアウト」や「今回予告」を用いるゲームシステムが、これに向いているかもしれない。
- 「ポスト構造主義RPG」では、ゲームプレイは「構造」即ち「お約束」に従うが、「お約束」は誰もが共有しているものではない。面倒でも、その時々の参加者で話し合って、共有できる「お約束」が作られなくてはならない。「お約束」が明示されるので、「FEAR型ハンドアウト」などから読み取る手間や、読み違える危険を避けることができる。「System」はこれに当たるのではないか、と愚考。
以上、四種の「○○主義RPG」を「マルクス主義」的に解釈するなら、後のものほど理想的な遊び方となります。「構造主義」的に解釈するなら、どの遊び方にも共通する「構造」があり、それは変化していない、となるでしょう。
思いまするに、「マルクス主義」は若者に好まれやすい考え方です。老いて古いものより、若く新しいものが常に正しい、というのですから。意見の異なる年寄りを「老害」などと罵倒すれば、若いというだけで労せずして陶酔に浸ることができます。かつて一世を風靡したのも、むべなるかな。
技術の「革新」(Innovation)は常に必要ですが、「革命」(Revolution)となると、古いものを排除する暴力革命であったり、新しいものを「反革命」として否定することがあります。美名の陰には、くれぐれも気をつけねばなりません。