ゴールデンルールのGM主導

前回の論考で、「ゴールデンルール」は極端な「ゲームマスター主導」を指向している、と述べました。今回は、この「ゲームマスター主導」とはどのような遊び方なのか、ということを説明します。

「ゲームマスター主導」とは、ゲームマスターがプレイヤーを導いてゲームプレイを成立させる遊び方のことです。ゲームマスターは、プレイヤーが「何をすれば良いか」(キャラクターに何をさせればよいか)を、あらかじめ決めておき、その集まりを「シナリオ」と呼びます。プレイヤーは、ゲームマスターから与えられる情報などから「何をすれば良いか」を読み取り、「シナリオ」通りにゲームプレイを進めるように努めます。

「シナリオ」は、単純なダンジョン探索であったり、複雑な人間関係を伴うドラマであったり、あるいは、結果として生じる物語が一本道であったり、複数に分岐するのであったり、と様々です。内容は何であれ、ゲームプレイが「シナリオ」通りに進むことが望まれ、最後までそうであれば「成功」となります。ゲームマスターもプレイヤーも、「シナリオ」通りの展開が最も面白い、という暗黙の了解を共有します。

以下、「シナリオ」の中にある「何をすれば良いか」の例を示します。各々の問いについて、回答がひとつだけの場合もあれば、複数の選択肢があってどれでもよい場合もあります。正しい答や選択肢は、何らかの方法で、プレイヤーに伝えられなければなりません。

  1. プレイヤー用キャラクターは、どのような人物であれば良いか
  2. キャラクターは、どのように事件や登場人物に関われば良いか
  3. キャラクターは、どのような情報を、どのように得れば良いか
  4. キャラクターは、どの相手を敵とし、いつどこで戦えば良いか
  5. キャラクターは、ある戦いで、勝てば良いか、負ければ良いか
  6. キャラクターは、ある謎を、いつ、どこで、どう解けば良いか
  7. キャラクターは、ある分かれ道などを、どちらに進めば良いか
  8. キャラクターは、いつどこでクライマックスを迎えれば良いか
  9. キャラクターは、どのように事件や登場人物と別れれば良いか
  10. プレイヤーかキャラクターは、成長点を何点ほど得れば良いか

余談ですが、「何をすれば良いか」の選択肢が多いことを「自由度が高い/大きい」、少ないことを「自由度が低い/小さい」とも言います。この「自由度」とは、ゲームマスターの管理下でプレイヤーに許される範囲を示すのであって、プレイヤーが「自由でない」ことが前提となります。「自由度が高い」ことと「自由である」こととは違うのです。むしろ高低(大小)を逆にして「管理度」とでも呼んだ方が実態に合います。

さて、もしプレイヤーがキャラクターの行動を自分で(自由に)決めたなら、「シナリオ」から外れて「失敗」になってしまうかも知れません。「何をすれば良いか」が分からなければ、「何をしてはいけないか」も分かりませんから、分からないのに行動することは危険です。ゲームマスターが能動的にプレイヤーを導き、プレイヤーは受動的にゲームマスターに従う、という役割に徹することが肝要です。

このような役割分担について、『AR2E』の『ルールブック (1)』(富士見書房、2011年)p.304~305には次のように示されています。以下、文中の太字は筆者(=鏡)によります。

GMの役割
GMはセッション中に、プレイヤーの分身であるPCたちが活躍する冒険の舞台を用意し、危険な状況に彼らを遭遇させ、しかるべき結末に導いていく。つまり、GM以外の参加者は受動的にゲームに参加するのに対して、GMはセッションのすべての段階に主導的、かつ能動的にゲームに参加することを求められているわけだ。
さらにはセッション以外の時間にも、次のセッションに備えてシナリオの作成(もちろん、シナリオに登場するNPCやエネミーのデータを作成することになる)を行う必要もある。何やら大変なことばかりだが、その苦労はゲームの成功によって十二分に報われる。そして、GMは他の参加者に対する奉仕者ではない。GMとプレイヤーは"ゲームを楽しく遊ぶ"ことにおいて対等である。GMはホストプレイヤー――つまり、参加者を楽しませる参加者である。GMもセッションを楽しむ参加者のひとりであることを忘れないようにしよう。

ゲームマスターが能動的に「楽しませる参加者」であるならば、プレイヤーは受動的に「楽しませてもらう参加者」となります。両者の関係は、小説における著者と読者との関係、映画における製作者と観客との関係に似ています。これをして、他のゲームと比べて「小説や映画のようなゲーム」と評価することも可能でしょう。

「ゲームマスター主導」では、ゲームマスターに苦労が集中しますが、プレイヤーとの協力によって成立するゲームプレイは完成度が高いものとなり、全員一丸となって大きな達成感が得られます。コンベンションなどでの、特に一回きりのゲームプレイに適しており、またリプレイとの相性も良い、と思われます。

このような「ゲームマスター主導」の長所を最大限に活かすべく工夫された遊び方が、「ゴールデンルール」である、と私は考えます。そのために、前回述べたようなヒエラルキーが必要とされたわけです。

例えば一般的な「ゲームマスター主導」では、ゲームマスターによるルールシステムの適用にプレイヤーが異を唱えれば、ゲームプレイを中断してゲームマスターはプレイヤーを説得して納得させるか、さもなくば適用を改めなくてはなりません。プレイヤーは、上位のゲームマスターに従いますが、ゲームマスターが更に上位のルールシステムに違反するなら、それを諌めることができるのです。

それに対して「ゴールデンルール」では、ルールシステムの解釈のみならず、変更や不使用までもがゲームマスターの自由とされ、プレイヤーはそれに「異を唱え、ゲームの進行を停滞させてはならない」とあります。ルールシステムは、ゲームマスターが「シナリオ」を運用するための道具に過ぎません。「ゴールデンルール」によってゲームマスターは、プレイヤーに邪魔されることなくゲームプレイを管理できるのです。

もちろん、「ゴールデンルール」発表以前にも、このような遊び方はあったでしょう。しかし、このような極端な「ゲームマスター主導」が受け入れられるのは難しかったと思います。公式なルールシステムをゲームマスターが私的に変更するなど許し難い、という反発は少なくなかったでしょうから。その意味では、それが「ゴールデンルール」として公認されたことに大きな意義があったのです。

ところで、「ゴールデンルール」における「セッションの目的」は、「参加者全員が"楽しい"と思える」こととされていました。そしてそれは、「参加者全員ができるだけ多くの成長点を得る」ことで示される、とも。となると、「楽しませる参加者」であるゲームマスターが「成長点ルール」においてどのような役割を果たすのか、が重要となります。その「ゴールデンルール」と「成長点ルール」との関係については次々回考察するとして。

次回は、「ゲームマスター主導」に相対する「プレイヤー主導」の遊び方について、参考までに紹介しておきます。