「努力」とは何か
玄兎さんの下記論考を拝読し、改めて思い返したこと。元々、卓上RPGは「努力しなくてもよい」ものだよなぁ、という話。もっとも、それは「滅んだ」ので、「努力しなくてもよかった」というべきか。
私の論考では、「コスト」ではなく、「努力」として語ります。さもなくば、私がなぜ「努力しなくてもよかった」とするのか、ご理解いただけないでしょうから。
さて、「努力」とは、『三省堂新明解国語辞典』(第5版)では次のように定義されます。
- 努力
- ある目的を達成するために、途中で休んだり怠けたりせず、持てる能力のすべてを傾けてすること。
しかしながらこの定義では、「努力」とされる行為に個人差が生じます。ある人にとって「努力」である行為が、他のある人にとっては「努力」ではない、ということがあるわけです。そこで仮に、あらゆる行為を「広義の努力」とし、上記定義のような「努力」とされる行為を「狭義の努力」として、考察を進めます。
「広義の努力」は、次の二つに分けられます。
- 無意識の努力。日常的な行為などでは、それに費やされる疲労や出費などが意識されず、努力とは感じない。
- 意識的な努力。行為に費やされる疲労や出費などが意識されて、はじめて努力と認識される。「狭義の努力」。
「無意識の努力」か「意識的な努力」(狭義の努力)かは、行為に要する体力や財力などによって分かれます。また、同じ行為者であっても、その時の環境や体調などによって、努力か否かは変わります。
例えば、毎日1㎞歩くことは、健康な若者にとっては「無意識の努力」でも、幼児や高齢者にはしばしば「意識的な努力」となります。健康な若者であっても、それが炎天下や台風の最中であったり、大荷物を背負っていたり、脚に怪我をしていたりすれば、それは「意識的な努力」となります。
「意識的な努力」(狭義の努力)は、更に次の二つに分けられます。
- 望んでする努力。やりたいからしている行為では、疲労や出費などは、喜ばしいものと感じられる。
- 嫌々する努力。やらなくてはいけないからする行為では、疲労や出費などは、ただ苦痛でしかない。
「望んでする努力」か「嫌々する努力」かは、行為者の好き嫌いや、目的を達成しようとする意欲の強弱などによって分かれます。ただ「好き」なだけか「上手くなりたい」かによっても、「望んで」か「嫌々」かは変わります。
例えば、体育の授業での持久走は、「走るのが好き」な者にとっては「望んでする努力」でも、そうでない者にとっては「嫌々する努力」となります。「走るのが上手くなりたい」者なら、もっと長く、もっと早く走ることを望むかもしれません。
ちなみに、「コスト」という語に相当するのは、「嫌々する努力」です。少なくとも「ハイコストよりもローコストの方が良い」とされる限りは。「望んでする努力」では、苦労が多ければ多いほど良いのですから。
これら、「無意識の努力」「望んでする努力」「嫌々する努力」の境界は、行為者によって様々です。
- 持久走や読書のような、一人での行為なら、個々が「自由に」やって、同じことを周囲の行為者にまで強要しなければ、何ら問題にはなりません。
- 野球や演劇など、たとえ複数人での行為であっても、個々の「自由」を認め、その結果をそのまま受け入れられれば、これまた問題になりません。上手い者は上手いなりに、下手な者は下手ななりに参加して、それだけで良い、とする場合です。娯楽としてやるのであれば、これでも良いはずなのです。
- 実際には複数人が関わると、しばしば個々の思惑、というか「欲」が錯綜します。野球では「試合ができればよい」から、「なるべく勝ちたい」「決して負けたくない」まで。演劇では「舞台に出られればよい」から、「観客を楽しませたい」「俳優として生計を立てたい」まで。「欲」の強い者にとっての「望んでする努力」は、「欲」の弱い者にとっては「嫌々する努力」となります。思惑の違いは、その集団の維持にとって、大きな問題となります。
何はともあれ、三種類の「努力」がある、と認識すること。ある行為は、自分にとってどの「努力」であれ、他者にとっては異なる「努力」かも知れない、とわきまえておくこと。可能であれば、相手と話し合い、その異同を確認すること。このような手順を踏むことで、相互理解が可能となります。
そして、選択があります。
- 能力的な個人差や好き嫌い、目的達成意欲などが異なる者同士で、互いに異なる「努力」を同居させるか。
- あるいは、能力・嗜好・意欲などの等しい者だけを厳選して集まり、同じ程度の「努力」を共有するか。
多様性の共存か、様々な住み分けか。個々の自由を互に許容するか、誰かが管理して全体を統べるか。どちらかが正しく、どちらかが間違っている、ということはありません。あくまでも「選択」です。
これら三種類の「努力」は、あらゆる行為に適用されます。もちろん、卓上RPGにも。卓上RPGにおける「努力」はどのようなものであるか、「努力しなくてもよいRPG」とは何なのか、については次回記します。