分かり難い定義は、面白い

xenothさんと高橋志臣さんから、それぞれお返事とトラックバックをいただきました。有難うございます。

お二方のお考えについて理解し敬意を払った上で、前回の意見を述べたつもりですし、今回もちょっと私見を並べ立てます。厳密には論点から外れることなので、場を混乱させてしまったら、申し訳ないのですが。

要するに、「分かり易い」のも「分かり難い」のも、読解者の知識や経験に基づく主観的判断に過ぎない、ということです。もちろん、そのように判断されること、そのものには何ら問題はありません。どちらかの知識や経験が足りないのではなく、論考の著者と読者とで共通する部分が少なかった、ということですから。

このように考えますと、「分かり難い」ということは、自分にとって新しい発想、視点、考え方を発見した、ということになります。ある事象について著者は、何故ひとつの概念として定義しようとしたのか?何故そのような名称(独自用語)を当て嵌めたのか?他の名称ではいけなかった理由は何か?このように問いかける時、そこに私は、ミステリー小説にも似た面白さを見出します。「分からない」って、面白いことなのですよ、私にとっては。

実のところ、高橋志臣さんが「街の人口」を「質的情報」に分類されたのには、そういう考え方は「あり」かも!って、ちょっと興奮しました(^_^;)。xenothさんは「質的」「量的」では分かり難いと判断され、確かにそのことには一理あるのですが、私はそこには引っかからなかったものですから。良いも悪いもなく、差異として。

で、もちろん「人口=量的情報」だって「あり」なんですが、人口を「質」と捉えると、どういうゲームプレイやゲームデザインに繋がるか?などと。その後修正されたということは、私の興奮は自慰的だったかとの恥ずかしさを感じつつも、そういう発想を得たということには違いなく、私にとっては新発見となるわけです。

...ついでに言っておくと、世の中には「分からない」を否定の言葉として使う方もいますけどね。その心理を慮るに、「自分は正しい」という信念がまずあって、「正しいことなら自分には分かる」から「自分が分からないものは間違っている」とするのかなぁ、と憶測。そうでなければ、「分からないところを問う」などして「分かろうと努める」ようにするでしょうし。

余談ながら私も今、一件の「分かり難い定義」で悩んでおります。ここしばらく「シーン制」について考察したのですが、『ダブルクロスThe 3rd Editionルールブック2』p.37にある「シーン制」に関する説明は、どうにも理解できなくて...。こちらについてはしばらく悩むのを楽しむつもりですが、分かり難い定義はそういうところにもありますよ、という一例。これも分かる人には分かるんでしょうが。

以上、くだくだと申し上げましたが、外野的な立場からでも言いたいことを言わないのもつまらないですからね。お目汚しにならなければ幸甚と思いつつ、御二方の有益な議論と、それに良い刺激を受けた諸賢による考察が発展されることを心から期待します(_ _)。