まとめの最後に、自由の定義の話など
卓上RPGを「自由に遊ぶ」ことについて、長々と述べてまいりました。「理論篇」の最初の記事を書いた2007年8月から、1年半ほど続けたことになります。ああ、楽しかった。
そのまとめの最後に、「自由」の定義の変化や、「管理」が生まれた背景など、あれやこれやと語っておきます。何となく触れる機会がなかったことも。
かつて卓上RPGが、「自由な遊びである」と喧伝されたことがありました。事実、ありました。このことについて考えるのであれば、そこで説かれた「自由な遊び」とはどういう内容だったのか、「自由」とはどう定義されていたのか、を考えなくてはなりません。あらゆる批判は、「肯定するための定義」から始まるのですから。私の答えは「キャラクターの行動を自分で考える」という定義であり、このカテゴリーの論考もそこから始めました。
そもそも卓上RPGを「自由な遊び」としたのは、コンピューターRPG(CRPG)やゲームブック、映画や小説と比較してのことです。映画の観客には、登場人物の行動を決めることはできません。CRPGでも、限られた選択肢(コマンド)からしか選べません。これらに対して卓上RPGの参加者は、自分のキャラクターの行動を自分で考え、自分で決めて遊びます。これを「自由な遊び」と称したのは、「CRPGや映画などとは違う卓上RPG」へと誘うための「外へ向かう言葉」でした。
やがて、このような「自由」への批判の声があがります。そのひとつを引用してみましょう。
「RPGにおいては、PCは自由に行動できる」というようなことがよく言われます。しかし、これはあくまで「コンピュータRPGに比べれば」という意味であって、文字通り「自由に行動できる」わけではありません。
実際、もし完全に自由に行動できるとしたら、何をしてよいか分からず、結局のところ何も有意義な行動がとれないのではないでしょうか。
ゲームにおいてプレーヤーが意志決定を行うためには、有限個の(おそらく片手で数えられる程度の個数の)選択肢が与えられ、かつ各々の選択肢についてある程度の情報が得られていなければならないのです。
無限の選択肢など、与えられても困惑するばかりです。 そもそも人間が求めている「自由」というのは「選択の自由」なのです。完全で無制限な自由など、本当のところ誰も望んではいません。
というわけで、RPGがゲームとして成立するためには、PCの自由を束縛することで、「ゲーム中にプレーヤーが選べる選択肢を絞り込む」こと、さらに「選択肢について判断を助ける情報を与えること」が必須になります。
(以上、「馬場秀和のマスターリング講座」第1章システム選択、1.3 背景世界より)
この「もし完全に自由に行動できるとしたら、何をしてよいか分からず、結局のところ何も有意義な行動がとれない」という理論は、「何でもできる、では何もできない」などとして人口に膾炙しています。「何もできない」とは「有意義な行動ができない」の意で、「有意義な行動」以外は無価値、何もしていないのと同じ、と評価したわけです。
...ひとつ余計な話をしておくと。「無限の選択肢」や「完全に無制限な自由」が、卓上RPGのゲームプレイで現実に生じたことはありません。キャラクターのデータや設定、舞台世界設定、シナリオ内で与えられる背景情報、そして何よりプレイヤー自身の発想力によって、選択肢は常に「制限」されますから。つまり「無限の選択肢」も「完全で無制限な自由」も、端から「ありえない」ものであって、「自由を束縛すること」を正当化するために仮想された概念、虚構なのです。これは「自由」を「否定するための定義」と言えます。まぁ、このような「ありえない」定義を持ち出すことの是非はともかくとして。
馬場秀和氏のような理論を活用することで、新しい遊び方への扉が開きました。ゲームマスターが与える「選択の自由」(自由度)の中で、プレイヤーは「有意義な行動」(最も面白い展開)を取って遊ぶ、「管理して/されて遊ぶゲームプレイ」と私が名付けた遊び方です。シナリオとゲームマスターには、プレイヤーに対して「選択肢について判断を助ける情報を与える」こと(誘導)が課せられるようになり、その負担はプレイヤーよりも格段に増えましたが、うまくいった時の達成感も増しました。
また、「管理して/されて遊ぶゲームプレイ」は、何を「有意義な行動」とするかで、多様化していきます。上掲の馬場氏は、「意志決定」や、「ゲームデザイナーの意図」通りに遊ぶことを「有意義」としました。あるいは、与えられたミッションをクリアすること、小説のような物語を構築すること、キャラクターが映画の主人公のように活躍すること、リプレイのように楽しそうに遊ぶこと、予定時間通りにゲームプレイが終わること、などなど、色々な遊び方を派生させることが可能です。
「有意義な行動」のモデルを他のゲームや物語の中に求めて、それらとの違いではなく、類似する点が注目されるようにもなりました。読み物として提供されたリプレイが入門書となったことや、メディアミックスの影響もあったかも知れません。「外へ向かう言葉」としては力不足でも、内輪でより良い楽しみ方を探るために用いられたのです。
さて、「自由に遊ぶ」のを含め、これら多種多様な遊び方に、我々はどう接するべきでしょうか。それらを「正統」か「異端」(heresy)かに分けるか、ひとつひとつを「選択」(hairesis)の対象とするか?これは私が問い続けていることであり、このカテゴリーでも語り続けてきたことです。この問いへの答えは、遊び手一人一人が「自分で考え、自分で決め」なくてはなりません。これを一年半の結びの言葉とし、一連のカテゴリーを終えることとします。
永らくお付き合い下さった諸賢に、心から御礼申し上げます。
以下、余談。
- POPUP TRPGで紹介されていたビデオ「The Gamers」。私はYou Tubeで最後まで観ました。あくまでもフィクションながら、「自由に遊ぶゲームプレイ」の姿を垣間見ることができます。一番面白いのは(ニコニコ動画での)コメントでしたが。
- ゲーム業界ニュースの記事「オブリビオンとドラクエで日米RPG比較」は、卓上RPGにとっても参考になる論考。この記事を検証するためにオブリビオンを始めた私でしたが...あまりに面白かったので中止。今はハマっている暇が無いんですよ。アメリカのCRPGは卓上RPGを目指しているのだな、と思いました。日本のCRPGと「TRPG」は、どこを目指しているのでしょうね。
- 「自由に遊ぶ」など、「自由に○○する」とは、能動的な行為、行動です。これに対して「○○の自由」と言えば大抵、法や神などによって与えられ、保証される受動的な概念を指します。「行動しようとする」人にとっては、後者を無視しないまでも、まず前者、どのように行動するかが重要です。「行動しようとしない」人は、前者よりも後者を重視し、むしろ行動しないための口実とします。...ゲームに限らない話、として。
このカテゴリーは終わりですが、「自由に遊ぶゲームプレイ」や「管理して/されて遊ぶゲームプレイ」について、以後語らないわけではありません。次はもっと視野を広げて、それらを網羅して「卓上RPGの階層構造」について、そして「メタゲーム」について語ってまいります。乞う、ご期待。
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