自由に遊ぶと失われるもの

現在一般的に行われているゲームプレイにはあるのに、「自由に遊ぶ」と失われるものがあります。取り合えず、三つばかり。

「自由に遊ぶ」と、「起承転結」は失われます。

リプレイとして公開されるゲームプレイは大抵、小説や映画のような「起承転結」のストーリー構成に沿ったものとなっています。特に公式のリプレイには読み物としての面白さも求められるため、より小説に近いプレイが相応しいのです。そういうリプレイを鵜呑みにして、「起承転結」が整うのが良いプレイだ、と考える者もいるかも知れません。

「自由に遊ぶ」と、あるのはただ「キャラクターの行動とその結果」だけ、参加者各々による「行動と結果」が繋がっていくだけです。参加者一人一人が小説や映画のような活躍を期待してキャラクターに行動させれば、それらの間には何らかのドラマが生まれるでしょう。しかしその行動決定は個別に行われるため、それらが「起承転結」に沿ったストーリーを描くことはまずありません。稀にそうなるとしても、たまたま偶然そうなったに過ぎません。

「自由に遊ぶ」と、「時間管理」は失われます。

リプレイとして公開されるゲームプレイは大抵、「起承転結」が1回のゲームプレイに収まっています。公式リプレイの実際の収録時間はともかく、時間制限のあるコンベンションなどで同じことをしようとすれば、プレイ時間に合わせてゲームプレイ全体をコントロールしなくてはなりません。概してシナリオのすべてを知っているゲームマスターによるこの行為を、「時間管理」と呼びます。

「自由に遊ぶ」と、そもそもプレイ時間に合わせる「起承転結」がありませんから、あるのはただ「皆で遊んだ時間」だけです。参加者一人一人がプレイ時間終了までにゲームプレイを納得できる展開になるよう努めれば、時間通りに終了するかも知れません。しかしそのような調整は個別に行われるため、それらが噛み合ってプレイ時間通りに収まることはまずありません。稀にそうなるとしても、たまたま偶然そうなったに過ぎません。

「自由に遊ぶ」と、「セッション成功」やら「セッション失敗」やらは失われます。

何がどうなれば「セッション成功」になるのか、あるいは「セッション失敗」なのか、ここでは措いておきます。確かなのは、参加者一人一人が「自分が面白いと思う」ように遊んでも、必ずしも「セッション成功」にならないらしい、ということです。「セッション成功」の評価基準は、きっとそれとは別のところにあるのでしょう。

「自由に遊ぶ」なら、「セッション成功」も「セッション失敗」も気にする必要はありません。あるのは、ただ「セッション」だけ。参加者一人一人が「自分が面白いと思う」ようにキャラクターに行動させて遊べば良いのです。キャラクターの一つ一つの行動や目的達成には成功/失敗があるでしょう。しかし、プレイ時間いっぱい「面白いと思う」ように遊んだ、そのことは覆されることのない事実です。それを成功だの失敗だの、どうでもよいことなのです。

...ひょっとしたら。本音で「面白い」と思えないからこそ、評価が気になるし、評価されたいのかも知れませんけどね。

以上をまとめますと、「自由に遊ぶ」と次のようなゲームプレイになるのです。

  1. 小説や映画のようなストーリーには、まずならない。
  2. 予定時間通りには、終わらない。
  3. ゲームプレイの成功/失敗は、問題とされない。

つまりは、卓上RPG以外の「ゲーム」と同じなのです。将棋や囲碁の対戦(game)や、野球やサッカーの試合(game)などの、ただしアマチュアの。卓上RPGを「自由に遊ぶ」と、「ゲームのようなRPG」になってしまうのです。

もしあなたが、リプレイにように「起承転結」が一セッションに収まるようなプレイ、(小説というよりは)「映画やテレビドラマのようなRPG」をしたいなら。あるいは、あなた自身が「自分が面白いと思う」ことよりも、そのセッションの「成功か失敗か」が気になるなら。あなたは「自由に遊ぶ」べきではありません。それに適するように「進化」した遊び方を選びましょう。

遊び方は、正しいものがただ一つ、ではないのですから。いつもこれが、私の結論。

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