「自由」と「管理」、各々での「誘導」
玄兎さんからトラックバックをいただいてから、随分時間がたってしまいました。御礼とお詫びを申し上げます。取り合えずトラックバックをいただいた記事は次の通り。
- 勝手に「自由」解釈(2) (玄兎さん、ペテン師の戯言。)
- 勝手に「自由」解釈(3.1) (同上)
上記二件の間にも、「自由」と「管理」について多くの記事を書いていただきました。網羅的にお返事を差し上げるには考察と執筆が追い付きませんので、重要と思われる論点についてのみ記すこととします。ここでは、自分の説明不足を痛感した「誘導」について。
私は「誘導」という語を、「プレイヤーに取らせたい特定の行動を、ゲームマスターが情報の中に暗に示すこと」という意味で用いています。このようなゲームマスターの「誘導」は、「自由に遊ぶゲームプレイ」でも「管理して遊ぶゲームプレイ」でも同様に用いられます。各々で違うのは、プレイヤー側の反応です。
「管理して遊ぶゲームプレイ」でのゲームマスターの「誘導」は、「最も面白い展開」をプレイヤーに伝えるために行われますから、それにプレイヤーが従うことが期待されます。プレイヤーは、ゲームマスターがダンジョンに入って欲しそうだからダンジョンに入り、謎を解いて欲しそうだから謎を解くのです。ゲームマスターには「上手く誘導する」ことが、プレイヤーには「上手く誘導される」ことが求められます。
「自由に遊ぶゲームプレイ」でのゲームマスターの「誘導」は、ゲームマスターからの一提案でしかなく、プレイヤーは従っても良いし、従わなくても構いません。プレイヤーは、プレイヤー自身がダンジョンに入りたいからダンジョンに入り、謎を解きたいから謎を解くのです。ゲームマスターは、プレイヤーが「誘導」に乗ってこないことを計算の上で、シナリオを作成/運用しなくてはなりません。
「管理」での「誘導」は、あるならプレイヤーは必ずそれに気付くべき、そして従うべき重大なものです。「自由」での「誘導」は、あってもプレイヤーは気付かなくても良いし、従わなくても良い、無視できる程度の存在となります。私が「誘導」について「管理」でばかり説いたのは、「自由」では気にしなくてよい、という背景があってのことです。
参考までに、このブログの過去の記事で「誘導」という語が出てくるところを、すべて引用してみます。私自身はすべて上記と同じように扱っているつもりです。
情報を収集し、行動を推理し、そして決着をつける、という構図には明確な面白さがあり、達成感も大でした。その面白さを得るために、ゲームマスターによる「誘導」は、最も露骨なものさえも肯定されるようになりました。
(※xenothさんからの質問「ルールを守り、デザイナーの指針を熟読し、GMの誘導に従う、というのも、それが当人の決断であれば、「管理」ではなくて「自由」ということで良いでしょうか?」に対して、私は「その過程および結果について責任を自分で負い、GMに責任を求めないなら、それは『自由』な行為です」と回答。)
予定調和が過ぎると、誘導が強制に代わり、やる気を失わせてしまいます。
そしてその展開が成り立つようにダンジョンの内部構造や登場人物設定、流布される情報などが設定されます。これらを介して、ゲームマスターはプレイヤーに「最も面白い」展開を伝えようと努め、プレイヤーもそれを過たず読み取ろうと励むのです。この「誘導」の成否が、そのまま「管理」の成否に繋がります。
その後も、ゲームマスターがうまく誘導し、プレイヤーはうまく誘導されることで、「最も面白い」ゲームプレイが出来上がっていきます。ダンジョン内では進める道が限られるため、誘導は容易です。
誘導が適切に行われ、余計なことで手間取っていなければ、予定通りの時間でそれに至っている筈です。
なお、「最も面白い」展開が複数用意され、それらが多様であれば、シナリオの「自由度が高い」ことになります。プレイヤーが何をしても、ゲームマスターの誘導によって「最も面白い」展開に戻せるなら、それも「自由度が高い」と評されます。ただしこれらは卓越した「管理」によるものであって、「自由」ではありません。
ゲームマスターがプレイヤーに特定の行動をさせようと「誘導」しているか否かは、NPCの行動の徹底振りや、ゲームマスター本人の顔色からも推定されます。
そのような状況で、何をするかはプレイヤーが自分で決めて良く、どのような行動でもゲームマスターは対応し、それがどのような結果でもプレイヤーは対応する、のが「自由」。陸路を行けとか、宿屋に泊れとか、プレイヤーが次にすべき行動へNPCによって誘導されたり、ゲームマスターから直接頼まれる、のが「管理」。
「PCが濡れぎぬを被って...」や「海路は嵐」は、それだけなら単なるシナリオ内状況です。対して、ゲームマスターがその状況を用いてプレイヤーの選択を「誘導」しようとしてするなら「管理」、そういう意図がまったく無いのが「自由」です。
やがて、より高い創作性を求めたゲームマスターが、「凝ったシナリオ」「細かいシナリオ」を作るようになって「シナリオ構築のコスト」が上がり、それを「スルーされたくない」からプレイヤーを「誘導」するようになりました。ここに「管理して遊ぶゲームプレイ」の起源があります。
「アリクの瞳」には「誘導」のための記述が多く見られますが、「管理」にまでは至っていません。
ついでに、最後の「アリクの瞳」紙面における「誘導」に関する記述を引用しておきます。
ダンジョンの中には、いくつかのヒントがある。しかし、不運なパーティはそれらのほとんどを見逃してしまうかもしれないが、DMは"守護者からの映像"によってヒントを与え、正しい方向に導くことができる。
他の点についてもおいおい記しますが、特にお答えすべき論点がありましたら仰ってください(_ _)。