自由は古く、管理が新しい
gginc(高橋志臣)さんからトラックバックをいただきました。有難うございます。
- 「自由な遊び方」の理念と鏡氏個人の〈運用〉は区別した方がわかりやすい (ggincさん、GOD AND GOLEM, Inc. -annex A-)
結論から言いますと、私が語った論旨について(項目1)は概ね正確に読み取っていただいているようですが、その意義等について(2と3)は真逆の評価をなさっているようです。何故そうなるかと言えば、卓上RPGの全体像、その歴史的経緯についての見解が、ggincさんと私とで異なっているためと思われます。
以下、ggincさんによる各項目について、私の意見を述べます。
- 確かに私は、「現場の〈運用〉」についての考察を述べています。
- 確かに私は、「公式」の提案以外の〈運用〉を気軽に行うことを望ましいと考えています。ただし、それは私の発案ではなく、卓上RPG本来の姿だと考えています。
- 確かに私は、「TRPGはあくまで道具」と考えています。ただし「TRPGにおけるゲームデザインの主役」は、〈ゲームマスター〉を含む全参加者であると考えています。
- 確かに私は、上記の理念を「自由な遊び方」と呼んでいます。あるいは「自由が否定される以前の遊び方」と呼んでもよいでしょう。
- 「自身の〈運用〉と理念型としての〈運用〉モデルとの混同」については意味が分かりませんので、先に進みます。
- 「現場の〈ゲームマスター〉と〈プレーヤー〉の相互作用によって生まれる」のは、「新しいゲームの面白さ」ではなく、「かつてあったゲームの面白さ」です。
- 「進行管理」をしないという点では「箱庭型TRPG」に似ていますが、シナリオがあるという点で異なります。
- 「箱庭型TRPG」にせよ「自由な遊び方」にせよ、「それ“だけ”がTRPGにおいてもっとも面白い〈運用〉」とは私も言いませんが、「腕の良いGM」にしかできないとも思いません。〈アクロバティックな運用〉と位置づけるのは、ggincさんの理論次第。
- 本来あった「自由」を否定して、後から作られたのが「進行管理」なのです。玄人好みではなく、素朴で気楽な遊び方として推奨しています。
- ゲームマスターが「〈セッション〉を統御」する、という遊び方の中から、「進行管理」が生まれ、また「自由」が排除されました。
- 「自由」か「進行管理」か、どちらを選ぶのももちろん自由です。むしろ「ゲームコンセプト」の名の下に「進行管理」を強制することこそ、避けられねばならないでしょう。
- ゲームマスターには「自由」が常にあります。むしろ「自由に遊ぶ」か「管理されて遊ぶ」かを選べるプレイヤーの「自由」をこそ、私は問題にしているのです。
思うに、ggincさんの理論の根底にあるのは「ゲームコンセプトの尊重」だろうと考えます。私の方は「遊びたいように遊ばせろ」で、「遊ぶ人間」と「遊ぶための題材」だけが重要。
なお私は、先に示したような「極端に自由な遊び方」通りのゲームプレイを実践したことはありません。「ほどほどに自由な遊び方」なら、海外製シナリオはしばしばそれを前提としていますので、幾度もありますけど。
以上がお返事ですが、現在執筆中の論考二本が更なる説明となれば良い、と期待します。ひとつは、卓上RPGが本来持っている「面白さの三本柱」について説くもの。もうひとつは、同じ遊びでも多様な接し方があることを、野球を例に表現するものです。
どれほど言を連ねても、経験そのものを補うことはできませんが。