自由に遊ぶ楽しみと、その代償
まず、「自由に遊ぶ」ことで得られる楽しみ、喜びについて示します。これこそが「自由に遊ぶ」ことの目的であり、これを望まないなら「自由に遊ぶ」意義はありません。
「自由に遊ぶ」楽しみとは、卓を囲む仲間たちと相互いに積極的に働きかけ、「自分たちの物語」を作っていく一瞬一瞬を味わうことです。できあがった結果ではなく、それを創り上げていく過程を楽しむのです。
ゲームプレイの中で、大抵はゲームマスターから、参加者本人たちの日常にはありえないような状況が示されます。各プレイヤーはキャラクターを介してその状況に置かれ、その人独自の発想と判断によって行動します。それを受けてゲームマスターは、これまたその人独自の発想と判断によって状況を変化させます。このやり取りがゲームプレイ終了まで繰り返され、先の読めない変化が積み重ねられていきます。参加者の一人が違えば同一にならないであろう、これが「自分たちの物語」です。
ゲームマスターには各プレイヤーが、各プレイヤーにはゲームマスターや他のプレイヤーが、次にどのような手を打ってくるか、分かりません。それ故、自分がどのような手を打つかすらも、それを判断しなくてはいけない瞬間までは分からないのです。すべては互いに影響し合う中から生まれ、一瞬も気が抜けません。このような緊張感はスポーツの試合や将棋などの勝負でのそれに似ており、それが故に卓上RPGは「ゲーム」なのだ、とも言えます。
そして「ゲーム」の参加者にとって、結果が大切な場合もありますが、楽しみの大きなところはその過程にあります。「楽しかった」という思い出よりも、「楽しんでいる」瞬間の方が、喜びは大きいのです。何であれ「ゲーム」に能動的に参加した経験があれば、このことはご理解いただけましょう。
さて、ある楽しみを最優先するためには、他の楽しみを放棄すべき場合があります。ここで示す(極端な)遊び方では、「自分たちの物語」を得る代償として、「自分(だけ)の物語」を諦めねばなりません。
「自分(だけ)の物語」とは例えば、プレイヤーが語る自分のキャラクター(だけ)の物語であり、ゲームマスターがシナリオの中に込めた(だけの)物語です。それらの中から「自分たちの物語」を創造することも全員「上級者」であれば可能ですが、この遊び方では端から放棄すべきです。
このような楽しみを選ぶことを前提に、参加者全員が心得ておくべき三つの要点について、次回から述べます。