反省をネガティブとするネガティブさ
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- 事前目標優先の例、他 (xenothの日記)
説明不足は失敬しました。「意見」についてはご推察の通り、「アフタープレイ」の件です。もっとも他には知りませんで、FEAR特有の「理論」がその背後に見出しうる、と私は考えております。改善すべき点の指摘を「ネガティブな意見」と言ってしまうネガティブさ、とかに。
さて、「反省会」という名称が改善すべき点の提起を強制する、というxenothさんのご心配はもっともだと思います。しかし、それを理由として「反省会」を除けば、今度は改善すべき点を表明することが排される、「つまらなかった」という感想を正直に言わないことが強制される、というのが私の考えです。
もっとも、実際の「アフタープレイ」での意見交換で、「ここは面白かった」「ここはつまらなかった」と正直な意見がやり取りされているなら、私の懸念は外れていることになります。正直な「反省会」ほどポジティブなものも無いのですから、むしろ外していることを祈ります。
「場の空気」の件。「合わせておけば安心」な権威として、しばしばゲームデザイナーが利用される、ということです。その内容が本当にゲームデザイナーの考え通りかは問題ではなく、その「場の空気」を乱さなければ何でもよい、誰も逆らえなさそうな偉い人の名前を出しておけばよい、と。
「伝説の邪悪獣」シナリオのように「NPCや設定や判定で導く」のが、私の考える「管理」の姿です。そういう技法を用いないことを、「自由」な遊び方と呼んでおります。もっとも「伝説の邪悪獣」の例は、シナリオ通りでもつまらなそうなので、「管理」にしても出来が良いとは言えませんが。
将棋の件。「常識的に良いこと、良くないこと」は、その現場の人間の合意に任せれば良い、というのが私の見解です。将棋連盟が「勝つ将棋」を良しとし、その方針で会員を「管理」するのは連盟の「自由」。「孫に将棋を教える祖父」が何を良しとするかは、また別の「自由」。