自由があること、許されること

「自由」についての論考を方々で拝読し、一度確認しておくべき、と考えたことについて書きます。トラックバックは特に送りません。ひとつめは、「自由がある」ことと、その「自由が許される」こととについて。

私は、「自由がある」ことと、その「自由が許される」あるいは「認められる」「受け入れられる」こととは、別の問題である、と考えています。少なくとも、別に考えた方が良い、と。

まず、多くの行動について、それを行う「自由がある」のが、事実、現実です。それを望み、決断すれば、その行動を試みることができます。克服できない「制限」があれば、その「自由が無い」ことになります。例えば、人間には「自分の翼で空を飛ぶ自由」はありません。克服できる「制限」なら、それを克服することが前提となります。「飛行機を操縦して空を飛ぶ自由」なら、飛行機の操縦方法を学び、操縦する機会を得ることが前提です。

そして、それとは別に、その行動が「許される」か、「認められる」か、「受け入れられる」か、などが問われます。「ある」からこそ「許される」「許されない」の問題となるわけで、「無い」ならその話までいきません。倫理的、慣習的、法的に「許されない」ような「自由」は、本人も躊躇しますし、周囲も止めようとするでしょう。それを振り切って行動した場合、何らかの処罰を加えられる恐れもあります。もっとも、「許されない」「認められない」「受け入れられない」からといって、それだけで「自由」が止められるということもありません。

そして、その結果もまた別の問題です。「自由」を行使しようとする者が十分な能力を有し、それを止めようとする力があっても、それに打ち勝てば、その行動は成功するでしょう。さもなくば失敗しますが、誰一人成功しないからといって、その「自由が無い」わけではありません。

よく示される物騒な例えですが、「人を殺す自由はある」けれど、現代社会では概して「許されない」ことになっています。「ある」からこそ、許される、許されない、という問題になるわけです。誰が許さないかといえば、国家や法律、殺される相手、周囲の人間などですが、それらの力が及ばなければその「自由」は止められません。現実として。

ただし、これも現実的な話として、「自由が無い」と思っていた方が「楽」(らく)なのも確かです。「制限」を克服するための努力をしなくてすみますし、失敗して自尊心が傷つくこともありません。安全第一なら、権威の「管理」下に逃げ込むのが無難な手です。それを非難する気はありませんし、私も日常よくやることです。いつでもできるわけではありませんが。

それでも、そのような「管理」のメリットを認めつつも、やはり根底には「自由がある」と認識していただきたいと思います。さもないと、他人の「自由」までも「無い」ことにしようとしがちですし、いざという時に「管理」から抜け出す「自由」をも持ち得ませんので。