制限の中の自由、制限の中の管理
ggincさんにトラックバックをいただきました。有難うございます。
- 議論のネタとしては適切だったらしい (ggincさん、GOD AND GOLEM, Inc. -annex A-)
後半を拝読するのを楽しみにしていますが、取り急ぎ「自由」やら「意図」やらについて。
まず、私が言う「自由」とは、「制限」が無い状態ではなく、「管理」が無い状態のことです。「制限」は常にありますが、それをどう解釈し、どう用いるのかが、各自の「自由」となるわけです。
卓上RPGのゲームデザインにおいて、あらゆるルールシステムや世界設定は「キャラクターへの制限」です。それらをデザインする際、「これらをどう使えば楽しめるか、こう用いると面白いだろう」とは、ゲームデザイナーの誰もが想定するでしょう。それ以上考えないデザイナーも少なくありませんが、更に進めて「これこそ正しい使い方である、この通りに遊ばれるべきだ」という結論に至る者もいます。後者のようなゲームデザイナーが至った結論、即ちゲームマスターやプレイヤーを「管理」して成し遂げさせようとするその内容を、私は「ゲームデザイナーの意図」と呼んでおります。
そしてゲームマスターやプレイヤーにも、「キャラクターへの制限」を用いて自分が面白いと思うように遊ぶ者と、「ゲームデザイナーの意図」通りに遊ぼうとする者とがいます。前者は仮に「ゲームデザイナーの意図」があっても、従うか無視するかを随時自分で決めます。後者は「ゲームデザイナーの意図」が必ずあると思い、むしろ無いと困るので、明確でなければ自分で解釈して作ってしまいます。後者の場合、勝手に作ったものであっても、つまらなかった責任はゲームデザイナーに押し付けられます。
先に私が挙げた「正気度」や「借金」などは、「管理のいき過ぎ」の例ではなく、「管理」と誤認された例、あるいは「ゲームデザイナーの意図」を誤解したと思われる例です。それを本心から面白いと思って遊ぶなら、その人の「自由」ですが。
ggincさんの上記論考、注4にある井上純弌氏のエピソードについて。井上氏が「つまらない」とした運用は、それで遊んでいた人々の「自由」であり「責任」です。井上氏がそれに対して「面白い」としている運用こそ「ゲームデザイナーの意図」であって、その通りに遊ばせたいという井上氏こそは「管理」するゲームデザイナーの実例と言えます。
また、シナリオ運用の際、ゲームマスターがプレイヤーを「管理」して成し遂げさせようとするものを「ゲームマスターの意図」と称します。概ね同様なので、省略します。
以上、今後の貴考察の参考にならなくとも、私の意見を表明できたことは幸甚です。