自由なデザイン、管理するデザイン
「自由」と「管理」について執筆している間に、関連すると思われる話題について下記サイトにて意見交換が行われていたようです。私も一言愚考を述べさせていただきます。
- 〈ゲームトークン〉の死と、システムレベルの〈目標〉デザイン(前編) (ggincさん、GOD AND GOLEM, Inc. -annex A-)
- 愛と気合でTRPG作成 (水無月冬弥さん、TRPGと現代ファンタジーを愛する男のブログ)
- 愛と気合でゲームマスターレベルの〈目標〉デザイン (acceleratorさん、ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む)
- 視点の差 (standbyさん、TRPG履歴)
卓上RPGにおけるゲームデザインにおいて、「自由に遊んで欲しい」と考える者と、「楽しめるように管理しよう」と考える者との、二種類のゲームデザイナーがいる、と私は考えます。後者であっても、デザインされたルールシステムや世界設定のすべてが「管理」のために設計されたものではありません。
これに対して遊び手の方でも、そのルールシステムや世界設定を使って、「自由に遊べば良い」と考える者と、「楽しめるように管理されている筈だ」と考える者との、二種類があります。前者は「管理」の仕組が込められていても勝手に遊びますし、後者はテキトーにデザインされていても無理矢理にでも「管理」の仕組を引き出そうとするのです。
以前も述べたことがありますが、デザインの意味が過度に強調された例と私が考えるものとして、トラベラーの借金、ルーンクエストのカルト対立、クトゥルフ神話TRPGの狂気などが挙げられます。個々のゲームプレイで注目するのは構わないのですが、プロが紙面でやると、途端に強制力が生じるのが困りものです。
この件について私が言えることは、ゲームデザインに「自由」と「管理」とがあり、それを遊ぶ方にも「自由」と「管理」とがある、ということです。どうか、どちらかひとつだけ、とは努々思いませぬよう。