「進化」を導いたもの
第二段階でゲームプレイの中に求められた「楽しみ」は、従来のゲームシステムからそのまま得られる第一段階の「楽しみ」とは異なるものでした。それ故、新しいゲームシステム(ルールシステムやプレイ技術)への「進化」が必要となったのです。
そのような(第二段階の)「楽しみ」が求められるようになった背景には、ゲームシステム以外のものからの影響があった、と考えざるを得ません。少なからず影響を与えたものとして、私は次の三者を挙げます。
まず、リプレイの影響。優れたプレイの記録というだけでなく、読物としても面白いリプレイは、卓上RPGの面白さを広めることに大いに貢献しました。しかしながらリプレイで示されるものは、ゲームプレイのありのままの姿ではありません。出来の悪かったゲームプレイがリプレイ化されないのは勿論のこと、リプレイにするに足るほどに優れたゲームプレイに、面白く読めるようにするための編集の手が加えられています。結果、読んで面白いリプレイが、少なくとも「他人がやったゲームプレイの例」、更には「理想的なゲームプレイの見本」「ゲームプレイのための具体的な手本」として読まれることになります。自分たちがどう遊ぶかよりも、如何にリプレイのように遊ぶかを気にするようになるのです。
次に、物語作品の影響。卓上RPGの遊び手の多くは、映画や小説、マンガやアニメなどの物語作品の愛好者でもあります。特にマンガやアニメとの類似は、市場確立のために選択された結果でもあります。登場人物の背景設定や行動が絡み合い、複雑な物語が展開していくそれらの作品は、誰もが楽しめ、誰もが愛する娯楽です。それらを愛することには何ら問題ありませんが、愛が高じて、そのような物語構成の妙を卓上RPGに求めると、問題が生じます。皆で協力して物語を作り上げていくのなら、(ランダム性などから)困難ですが不可能ではありません。しかし、「ゲームマスターとプレイヤー」の関係に「作家と読者」の関係を重ね合わせるなら、実現はまず不可能です。そもそもゲームプレイでは、主人公格の登場人物(プレイヤーキャラクター)を作家が操ることすらできないのですから。
最後は、心理的要因。端的には、「たかがゲーム」と割り切れない、自分が参加したゲームプレイは常に素晴らしいものでなければ嫌だ、などといった意識のことです。何故そういう強迫的な観念に囚われるのかは、ここでは措いておきます。そういう意識の典型的な顕れとして、例えば「折角の休みを一日潰すのだから、つまらない思いをするのは嫌だ」というセリフがあります。その裏には、「一日遊ぶ」だけでは「楽しい」内に入らない、「一日潰す」に値するほど「楽しい」と評価されなければならない、という心理が見て取れます。どのような評価基準でそれを判断するにせよ、何らかの「理想的なゲームプレイ」を追い続けることになります。
以上三者は、遊ぶ環境の「進化」、遊び手自身の「進化」とも言えましょう。これらの「進化」こそが、ゲームシステムの「進化」を導いたのです。
勿論、異なる環境では別の「進化」が求められるでしょうし、必ずしも「進化」しなくてはいけないものではありません。どのような未来を選ぶかは選択可能、本人次第なのです。