「信じる」内容と難しさ (プレイ篇)

ここでは、「信じる」ことと「信じない」ことの推移についてまとめます。先んじてお断りしたいことが二点。

第一点は、「信じる」「信じない」と善悪とは必ずしも関係が無い、ということです。「信じる」とはリスクを背負うことであって、見合うメリットや覚悟も無しに行なうべきことではありません。何であれ不用意に信じれば、自分のみならず周囲の人間にも迷惑を及ぼしますし、そうなってから責任を信じたものに課すこともできません。信じれば良い、というものでは無いのです。

第二点は、ここで述べるのは、ゲームプレイにおいて、その参加者が他の参加者を「信じる」か「信じない」か、の話だということです。私がどこかに書いた(と思う)「FEAR製RPGはユーザーを信じていない」というような、デザイン上の「信じる」「信じない」については、別途述べることとします。

さて、「信じる」(あるいは「信じない」)内容は、先のエントリー「「楽しむ」から「楽しませてもらう」へ」で述べた三つの楽しみ方によって異なります。「皆で楽しむ」、「自分が楽しむ」、「楽しませてもらう」の各々において、他の参加者に対して何を「信じる」のか、そしてそれを「信じる」ことはどの程度難しいのか、が違ってきます。

「皆で楽しむ」ためには、参加者全員が「皆で楽しむ」という姿勢を持っていること、全員が互いを仲間として受け入れていることが必要です。このような仲間意識は、「信じる」ことが容易です。仲間と一緒に遊ぶこと自体が目的ですから、「信じる」ことがそのままメリットとなり、リスクはほとんどありません。ただし「信じている」ことの証明として、仲間らしい積極的なやり取りが要求されます。逆に「信じない」場合はプレイ自体成立しません。

「自分が楽しむ」ためには、自分のプレイ能力、他の参加者の能力、そして自他の相性がうまく噛み合う必要があります。期待する楽しさが大きいほど、自他への要求も高くなります。赤の他人が相手では、能力や相性の予測がつきませんから、それを「信じる」ことのリスクは高くなります。能力や相性を「信じない」、即ち、無能であることをを基準にするならば、リスクは最低限に抑えられますが、得られる楽しみも多く望めません。この楽しみ方での選択が、最も難しくなります。

「楽しませてもらう」場合、「楽しませてあげる」者の能力や、その者と自分との相性がまず重要となります。後は、「楽しませてもらう」側の参加者が全員、「楽しませてもらう」姿勢を守ること。前者は「自分が楽しむ」のと似ていますが、能力が要求される者が「楽しませてあげる」者に限られ、また相性は「楽しませてもらう」側から合わせれば、リスクは大幅に減少します。後者も「皆で楽しむ」と同様ながら、要は「余計なことをしない」だけで良いので、こちらでもリスクは抑えられます。

なお、三者いずれにおいても、主たる楽しみ方についての「信じる」「信じない」だけが重要となります。例えば「楽しませてもらう」のが主眼であれば、相手の仲間意識を「信じる」か否か、他の「楽しませてもらう」者の能力を「信じる」か否かは、あまり問題になりません。そのため、上手くいけば異なる楽しみ方が同居することも可能です。

「進化」についての仮説。「皆で楽しむ」段階では「信じる」だけで間違いなく得られた喜びが、「自分が楽しむ」段階に移行するや得られない場合が多くなりました。「信じる」内容が変わり、その難しさも増大したためです。その解決策として「楽しませてもらう」段階では、「信じる」範囲を限定することでリスクを減らし、喜びを得られる確実性が高くなりました。「信じる」という言葉は同じだったため、「楽しむ」のと同じように、内容の変化には気付き難かった、と考えられます。