誰が「FEARシステム」を嫌うのか

久々の論考レビューは「FEARシステム」について。

ここでいう「FEARシステム」とは、「シーン制」「シーンPL制」「ハンドアウト」「ゴールデンルール」などのFEAR製RPG特有の技法を組み込んだルールシステムのこと。取りあえず以下の四論考を拝読しました。

「批判」とは本来、良いところも悪いところも取り上げて考察することですが、ここでは「低く評価する」「嫌う」という意味でしょう。そこで、「FEARシステム」がどのような者から嫌われるのか、私の考えを示すこととします。

まず「FEARシステム」の特性は、それ以前のゲームシステムではうまくできなかった「理想的なプレイ」を、半ばルールの一環として組み込まれた機構によって「させてもらう」ようにしたところにあります。これにより、「できない」者は「できる」ようにならなくても「理想的なプレイ」に参加することが可能となるのです。この特性を「長所」と捉える者は、「FEARシステム」を愛好し、高く評価することとなります。

対して、このような「FEARシステム」を嫌悪し、低く評価する者には、次の三種が考えられます。

第一に、「させてもらう」ための機構が嫌い、という者。そのような機構がプレイヤー全員に等しく適用されるのは、プレイヤー全員を「できない」ものと見なしているわけです。本当に「できる」か「できない」かに関わらず、全員が「させてもらう」からこそ、確実に「理想的なプレイ」が成立するのです。「できる」かも知れない、やってみたい、などということは許されず、そう望むことすら排除されなくてはなりません。ついやってしまって排除された者や、そこに抑圧を感じた者は、「FEARシステム」を嫌うこととなります。また、遊ぶ仲間を「できない」者と決めつけることに抵抗を感じる者もいるでしょう。

第二に、「させてもらう」こととなる「理想的なプレイ」が嫌い、という者。この機に申し上げますと、それ以前のゲームシステムでうまくできなかったようなプレイとは、元々はRPGでやるべき遊び方では無かったのです。デザイン上で想定されていないプレイを遊んでいけないとは私は考えませんが、「FEARシステム」が想定する「理想的なプレイ」が卓上RPGの遊び方の中でごく一部に過ぎないことは確かです。「FEARシステム」以前のプレイを嫌う者がいるならば、逆に「FEARシステム」におけるプレイを嫌う者がいても不思議ではありますまい。

第三に、「させてもらう」ことを他所でも強要する者が嫌い、という者。「FEARシステム」を、それが想定している「理想的なプレイ」のために用いるならば、何ら問題ありません。ところが時に、「RPGとはそういうものだ」と勘違いした一部の者が、それを想定していない他のゲームシステムでも同じプレイを求め、同様の機構を要求したり、対比する形で褒め称えることがあります。「FEARシステム」と異なるゲームシステムの愛好者は、好むゲームプレイも自然と異なります。そこに押しかけて自説を吐けば、そうした本人は元より、「FEARシステム」すら嫌われることも想像に難くありません。

以上の三者には、「FEARシステム」の同じ特性が「短所」として捉えられます。同じ特性に対して、「長所」か「短所」かという両極端な評価がなされているわけです。

さて、私自身はデザインコンセプトをこのように理解した上で、「FEARシステム」を高く評価しております。好みではないので自分から積極的に遊びたいとは思いませんが、好きで遊ばれる方には敬意をはらっているつもりです。叶うならば相手にもそうして欲しいので、このような認識が少しでも共有されれば、素晴らしいことと考えます。