余論 : 殴り合わない「いじめ」
最後の余論。いわゆる「いじめ」の中には「殴り合うコミュニケーション」が見られない、という話です。
「いじめ」という語が示す内容は時代ごとに変化していますから、まずここで扱う「いじめ」を定義しておきます。昨今問題視されている「いじめ」には、次のような特徴が見受けられます。(ただし私自身には実体験がありませんので、伝聞情報のみを元にしております。)
- 多数の加害者が、少数(しばしば一人)の被害者に嫌がらせをする。(ルール)
- 嫌がらせは、肉体的苦痛よりも精神的屈辱を与えるためのものである。(ルール)
- 被害者は嫌がらせに対して無抵抗か、逃げることはあっても、反撃はしない。(ルール)
- 発生するきっかけはあっても、発生しなければならないような原因は無い。
- 加害者と被害者との格差は少なく、加害者の一人が被害者と交替することもある。
誤解を恐れず言うならば、上記のような「いじめ」は、加害者(いじめっ子)と被害者(いじめられっ子)とが、更には傍観者までが協力して行なう儀式のようなものです。「協力」というのは、参加者全員が上記1~3のルールを守らなければ、それが成立しなくなるためです。例えば、被害者が加害者より多人数で徒党を組む、加害者が被害者を明白に死傷させる、被害者が反撃をする(あるいはそれが可能な力を持つ)、など。ただし、違反が軽微であれば、嫌がらせの激化、最悪でも被害者の交替によって「いじめ」の存在だけは維持しようという力が働きますが。
また「いじめ」とは、最後まで被害者にならなければ「勝ち」という、構造上はゲームのようなものです。参加者にとっては深刻でストレスの強いゲームですが、「被害者側にだけは回りたくない」という恐怖が、それを続けさせます。「いじめ」を止めても、また始まるかもしれませんし、その時自分が被害者になっている恐れもあります。そのため、より確実な手として、自分が被害者になっていない形で「いじめ」を維持することが選ばれるのです。
ちなみに、メディアなどからの情報も「いじめ」を始めるきっかけとなります。(架空の)「みんな」がやっている、しかもそれで大人たちが困っているとなれば、模倣したくなるのも思春期特有の幼さです。また、それがどれほど危険なものか予期するほどの知能もありません。問答無用で「絶対にやってはいけない」「それをやる人間は一人もいない」と教え込まれるのと、正反対の現象が起こっているわけです。被害者の自殺についてもまた然り。
さて、このような「いじめ」と、「殴り合うコミュニケーション」との関係について考えてみます。
「殴り合うコミュニケーション」には、ちょっとした意見の言い合いとその調整から、口喧嘩までが含まれます。拳での語り合いをコミュニケーションに含めるなら、殴り合いのケンカも入ります。自分の考えを相手にぶつけ、相手もまた考えを投げ返し、理解し合うまで繰り返すことすべて、と言っても良いでしょう。罵詈雑言の応酬まで「考え」といえるかは難しいところですが、相手と決着をつけた後も付き合いがあると思い、抹殺を目的としないなら、「殴り合う」の一環と考えます。
しかし、このような「殴り合う」過程は、「いじめ」の中には見られません。あるのは、加害者側にとっては一方的に「殴る」こと、被害者側には一方的に「殴られる」ことだけです。殴られた者が殴り返すのは先述の通り「いじめ」におけるルール違反で、「殴り合う」ことになれば、それは「いじめ」ではなく「ケンカ」になってしまいます。積極的に殴ることはなくても、殴られれば殴り返してくるような者は、「いじめ」の被害者に相応しくありません。「いじめ」の加害者は殴られてはいけないのであって、万が一殴られたなら加害者としての自分の立場が危うくなり、最悪それがきっかけで被害者側にされてしまう恐れもあります。
やり返したらもっと酷い目にあわされる。我慢していれば直に終る。多勢に無勢。だから殴り返さない。そうやって一方的に「殴られる」者でなければ、加害者側も安心して「殴る」ことはできません。そういう者がいてくれるからこそ、「いじめ」を続けることができるのです。腕力まで及ばなくとも、常日頃「殴り合う人々」は、「いじめ」の加害者にも被害者にもなる余地が無いであろう、と私は考えます。逆に言えば、「いじめ」に参加しうるのは、どちらの側でも「殴り合わない人々」である、とも言えます。そういう意味で「殴り合うコミュニケーション」が「いじめ」の特効薬となりうる、とまで断言できるかどうかは…何せ実体験が無いので自信ありませんが。
ところで。
昨今、この「殴られたら、殴り返す」「やられたら、やり返す」ということを、「悪」と評価する風潮があるようです。「殴る」のが悪というだけならまだ分かりますが、「殴り返す」のもダメ、「一方的に殴られる」のだけが善い、とは「右の頬を打たれたら…」と説く宗教より過激。「平和主義」「非暴力主義」と呼ばれるものがそれで、周囲の大人、親や教師などがその信奉者だと、子供は悲惨です。「一方的に殴られる」状態が「善」ということは、そこから抜け出すことは相対的悪となります。大人の言うことをよく聞く子供ほど、一度嵌れば自力では二度と抜け出せないわけで、何としても被害者側に回らないよう必死になります。加害者に回るか、傍観に徹するか、誰か他人を未来永劫被害者のままにしておくことで…。
つまるところ、「いじめ」を無くす方法はありますが、それを当事者にやらせるのは困難を極めます。…だって、どうしてもやらない人々だからこそ、その当事者なのですから。