本当は皆できる、そして反省会は楽しい
アキトさんのお返事に感謝します。ひとつ気長にお付き合い願います。
まず「できる/できない」について、私の考えを示し直します。ややこしいですけれど。
実は「殴り合うコミュニケーション」を本当に「できない」人はいません。少なくとも「睦び合うコミュニケーション」や「殺し合うコミュニケーション」が「できる」なら、やるのに必要な能力(会話ができること)は同じですから、「殴り合うコミュニケーション」だけ「できない」ということはないのです。
「できないからやらない」とは、本当は「できる」のに「できない」と思い込んでいる者や、「できない」と主張することで「やらない」ことを正当化しようとしたり、「やらない」ことで生じうる責任を回避したい者などです。「できないからやらない」は本当は「できるけどやらない」なのです。
また「できるけどやらない」には、「できるけど、(今はやりたくないから、今は)やらない」のと「できるけど、(決してやりたくないから、今も)やらない」のとがあります。つまるところ、前者は「やる」人、後者は「やらない」人です。もっとも、「やる」人にとって「できる」ことは当たり前なので、殊更に主張されはしませんが。
このように「できる/できない」には、虚実が入り乱れています。そのひとつひとつを考察することも可能でしょうが、より単純な「やる/やらない」だけで論じた方が手っ取り早い、と考えた次第です。
次に反省会について。紙魚砂さんのブログ内「反省会の意義」でも論じられていますが、私の見解はまた少し異なります。
私にとっての反省会は、参加者同士の(殴り合う)コミュニケーションであって、それ自体が楽しいのです。またそれはゲームプレイの一部であって、遊んだばかりの事柄についてあれやこれや語り合う喜びに比べれば、そこから得られる改善効果などは(あればもちろん素晴らしいことですが)余禄に過ぎません。
反省会に「生産性」や「効果」を期待し、それが少なければ弊害と見なすのは、反省会から苦痛しか感じられないためではなかろうか、と想像します。あるいは反省点が、相手のためを想ってではなく、ストレス解消や報復として挙げられるならば、それは「殺し合うコミュニケーション」に他なりません。
…ところで、反省会といえば、まず自分の反省点を述べる場であろうと思いますが、その辺はどうなんでしょうかねぇ。