「敷居の高さ」と嗜好の関係
論考レビュー二つ目は、回転翼さんが説く「ゲームマスターの敷居の高さ」について。
何であれ誰であれ、自分が好きなことはどれだけ複雑難解でも面倒には感じず、むしろ「やりがいがある」と感じます。逆に、興味が無いことだと面倒くさくてならず、「敷居が高い」と思うことになります。「戦闘」にせよ「物語」にせよ、好きな者にとって「やりがいがある」ように増やされたルールなどを見て、好きでない者が「敷居が高い」と辟易するわけです。
では、なぜゲームマスターにとって特に「敷居が高い」のでしょうか?それは、「ゲームマスターは何でもできなくてはならない」と思われているからだろう、と私は考えます。
戦闘好きなプレイヤーとマスターとで戦闘メインのゲームをやったり、物語で同様のことをやっていれば問題ありません。しかしながらコンベンションで出会うプレイヤーは多様な嗜好の持ち主であると同時に、大概は自分の嗜好の通りにしか遊びません。そのように遊ぶために来ているからで、ゲームマスターはその全てに対応する羽目になります。仲間内なら「プレイヤーはこうしてくれよ」とか「ゲームマスターを替わってくれよ」とか言えますけど、コンベンションでは「やるか、やらないか」の二択。やる以上は万能であることが期待されるのですから、「敷居が高い」のは当然です。
このように考えるので、「敷居を下げる」にはゲームシステムの在り方を、遊び手の嗜好に合わせて明確に使い分けるようにすることが必要なのではないか、と思います。あるいはデザイナーが必要以上に工夫を凝らさず、遊びの現場に任せるというのも手なのですが、これは守られません。同好の士に支えられた新しいデザイナーが必ず「余計な進化」をさせてしまいますので…。
ちなみに私にとっては、ルールが軽く、データも少ないゲームシステムは「敷居が低い」です。物語の前提となる「お約束」が無いものも、やはり「敷居が低い」。主たる興味の対象がルールブック上にもリプレイ上にも現れない私のような者にとっては、デザイナーはなるべく何もしないのが最善だったりします。まぁそういう者を相手にしろとは流石に言いませんけどね。