「プレイヤーシーン」について
紙魚砂さんの「プレイヤーシーン」は、「場面」処理の歴史上、大変興味深い提言です。論考レビューの最初はこれについて考えてみます。
私の経験を下敷きに述べると「プレイヤーシーン」というアイデアは、プレイヤー主導型プレイの復権を狙うものであり、またそれをゲームマスター主導型プレイにおける変革と同様の手法によって成し遂げようとする試みです。
昨今「シーン制」と呼ばれているプレイ方式では、ゲームマスターが主導的に「場面」を設定し、プレイヤーがそれに応じるのが基本形となっています。信じられない話かもしれませんが、こういうやり方はかつては、悪いプレイテクニックとして嫌われていました。「マスターシーン」(PCが誰も登場しない場面)に至っては、独り善がりな吟遊詩人マスターの自己陶酔と忌避されたのです。それらを好む者もいましたが、肩身の狭い思いをしていたことでしょう。いつの間にか価値観の主客が逆転したわけで、両方を知っている者にとっては驚くばかりでもあり、興味深くもあるところです。
どうしてゲームマスター主導が主流となったのかを考えるに、それが明確な規則(ルール)として示されたことが一因と思われます。まず誰が何をするか、そして次に誰が何をするか。誰の判断が最優先か、次は誰か。卓上RPGの遊び方が高度にマニュアル化されたわけで、そのことが少なからぬ遊び手から歓迎されたのです。(無論、マニュアルの対象から外れた者や、既に独自の技術を身に付けていた者からは反感を買いましたが。)
さて「プレイヤーシーン」は、プレイヤーが自由に発想できる場(シーン)を、ゲームマスター権限を制限することで成立させようとします。ゲームマスターが用意したシナリオ(ストーリー)をプレイヤーの権限を制限することで成立させたのと逆ですが、アイデアとしては似ています。類似によって反発が避けられれば、新しい遊び方として受け入れられる可能性があります。復権とはいっても単なる先祖返りではなく、新旧の流れを受け継ぎつつ、そのどちらとも違う新世代が始まるのです。このアイデアが更に発展することを願って止みません。
なお、現在の潮流を育んだ背景として、遊び手の嗜好との相性、ある種の心理的傾向、リプレイというメディアの特性なども影響しています。新しいものを得るためには、それらを新しくしていく必要もあるかも知れません。
ところでキャッスル・ファルケンシュタインの「舞台裏」の一つ目は、ちょっと「プレイヤーシーン」的な感じがします。あまりに大雑把というか、テキトウなものですけど。