あなたのRPGは、自由か平等か
nagafutimasatoshiさんが「二極化」について書かれていますが、私はその分岐点が「プレイ時間」や「PCの活躍」についての「自由か平等か」辺りにあるだろう、と考えています。
「プレイ時間」を人数割りして「一人当りのプレイ時間」とする考え方を最初に知った時は、心底驚いたものですが、それを当たり前のように思う(そう教えられた)者もいるのでしょう。プレイ時間という参加者の共有物は、「共有物だから皆で仲良く使う」とする他に、「共有物だから奪い合う」故にゲームマスターが「管理して平等に使わせなくてはならない」という見解があるようです。後者相手に「仲良く使う」と思って任せたりしたら、「投げっ放し」と非難されるなど、見極めが大切です。
「PCの活躍」については「誰もが等しく活躍できるのが良い」の意を、「機会平等=自由」と割り切るか「結果平等」を目指すかで違ってきます。PCがチーム(パーティ)を組んでいれば「機会平等」と「結果平等」とはほぼ一致するのですが、そうでない場合に「機会平等を積極的に活かそうとする」か「行動に関わらず結果平等を主張する」かはプレイヤー次第となります。その癖、前者にとって後者は「努力せずに報酬だけ求める怠け者」、後者にとっての前者は「自分の欲のために他を犠牲にする無法者」、と互いに非難の的となるのが悩ましいところです。ゲームマスターについても「小さい政府」(投げっ放し)と「大きい政府」(完全管理)と、望まれる姿が両極端で…。
どちらにせよ、選ぶのは遊び手次第で、その時々で気が向く方を選べばよいのだろう、というのが私の考えです。「こちらが正しい」と教育されて片方しか出来なくなった方は気の毒で、欲望そのままの「自由」よりも自制を求められる「平等」の方が、その傾向は強いかもしれません。