TRPGのゲームプレイにおいて「皆が楽しい」ことが望ましい、と語られることがあります。しかしながら「皆が楽しい」という状態は、「実態」(Reality)が無い「虚構」(Fiction)です。「虚構」だからといって否定されるべきではありませんが、「虚構」を「虚構」とわきまえずに扱うと多大な害悪を及ぼします。
定義。「虚構」とは、「事実ではないことを事実らしくつくり上げられたもの」のことです。「虚構」はこの世に満ち満ちており、何らかの便宜のために用いられています。「虚構」は必ずしも「嘘」ではなく、また「虚構」だから「悪い」ということもありません。「虚構」は「宗教」です(後述)。
まず、独り独りの「私」が「私が楽しい」と感じることには、「私」の主観としての「実態」があります。しかし「私」は、「私が楽しい」ことを「私」以外の者に直接感じさせることはできません。表情や仕草、発言などによって、間接的に「楽しそう」と推測させることなら可能です。
また「私」は、「私」以外の者が「私が楽しい」と思うことを、直接感じ取ることもできません。表情や仕草、発言などから「楽しそう」と推測しても、その人が本当に「楽しい」かは分かりません。他からは「つまらなそう」に見えても本人は「楽しい」こと、またその逆もありえます。
対して「皆が楽しい」という場合。「皆」とは複数人の集合体を表す言葉であり、「楽しい」と感じるような「皆」という主体は存在しません。それ故、「皆」とは「虚構」であり、「皆が楽しい」もまた「虚構」です。便宜上「皆が楽しい」と言われる場合として、二つの解釈がありえます。
第一の解釈は、「私が楽しい」の集合体を「皆が楽しい」と言う場合。参加者独り独りが「私が楽しい」と感じ、そうでない者が一人もいない状態を、「皆が楽しい」こととします。「私が楽しい」のであれば、その分は「皆が楽しい」に近づいた、と「私」にだけは分かります。相手の分を表情などから推測したところで、「皆が楽しい」が本当に成立したか否かは誰にも分かりません。
第二の解釈は、「私が楽しい」とは異なる「皆が楽しい」を置く場合。参加者独り独りとは別に「権威」としての「皆」を想定し、そのような「皆」が「楽しい」とされる状態を目指します。具体的な内容は、主導者の見解や、権威的書物(や動画)から導き出されます。「皆が楽しい」はずの状態になっても、「皆」ではない「私」に、「皆が楽しい」と感じ取れるわけではありません。
どちらの解釈にも共通することは、「皆が楽しい」か否かの確認は不可能で、せめて参加者が「楽しそう」か否かによる推測しかできないことです。推測できたところで、それが本当かどうかは分かりませんが。
さて、耳触りの良い「虚構」、美しい「虚構」ほど、世の中で多用されます。「正義」「平和」「民主」「神」そして「皆が楽しい」も。用い方としては、「モットー」「スローガン」「プロパガンダ」の三種があります。
私は「皆が楽しい」ように頑張ろう、などと個人的に心掛けるのが「モットー」(座右の銘)です。
「モットー」を共有する者が集まれば、それはしばしば、我々は「皆が楽しい」ように頑張ろう、などという「スローガン」(団体の主張目標を印象づける文章)になります。
「スローガン」が多数派を勝ち得ると、それは時に「プロパガンダ」(特定の主義思想を支持させようとする宣伝)となります。受け入れる多数派か、受け入れない少数派か、という所属の選択を迫るのです。「プロパガンダ」だから「悪い」わけではありません。優勢な「プロパガンダ」ほど「プロパガンダ」と見なされず、最も優勢ならば「当たり前」と見なされます。
「スローガン」や「プロパガンダ」の主張者は、常に自分がそれを保っていると示さねばなりません。主張を知らしめるためよりも、同じ主張者たちから造反を疑われないために。語るなら声が大きいほど、書くなら字が目立つほど、行動は派手で過激なほど、強く訴えることができます。主張が「虚構」だと、「実態」を示せない分、発言や演出が派手になりがちです。
第一の解釈であれ第二の解釈であれ、「皆が楽しい」という「虚構」もまた、その成立を「実態」として示すことはできません。参加者全員が、表情や仕草、発言などによって「楽しそう」に振る舞い、「皆が楽しい」かのように見せかけることならできます。逆に「楽しそう」な振りをしないことで、「皆が楽しい」のではない、と訴えることもできます。本心はどうであれ。
いや、「皆が楽しい」とは「虚構」ですから、無理にそれが成立したように見せかける必要は本来ありません。「虚構」を「虚構」とわきまえておけば、それに惑わされることはないのです。いつまでも追い続ける目標、夢見る理想として「モットー」にするなら良し、「実態」のあること、例えば「私が楽しい」ことを、もっと大切にした方が良いのです。
しかし、「皆が楽しい」を「虚構」とわきまえずに「スローガン」や「プロパガンダ」とすれば、「虚構」は「実態」を潰しかねません。「楽しそう」な振りは義務となり、表情や仕草、発言などによる表現にも派手さが求められるようになります。「私が楽しい」どころでなく、周りの目ばかりが気になるでしょう。
結論。「皆が楽しい」とは「虚構」です。「虚構」とわきまえず、「皆が楽しい」ように見せかけるようでは、周りの評価を気にしながら、気にさせながらのゲームプレイとなってしまいます。それは参加者の誰にも多大な害悪を及ぼしますから、そうならないように「虚構」に囚われずに遊ぶことを私はお勧めします。
以上、「虚構」三論考の一本目。
予告。「皆が楽しい」という状態とは似て非なる、「皆で楽しむ」という行動があります。TRPGを「皆で楽しむ」ための工夫については、二本目にて。
予告。「虚構」は「宗教」です、の意味は三本目にて。「宗教」は「虚構」、なのではありません。
余談。何についても「初心者」は、「私が~」を問われるより「皆が~」に導かれる方が簡単なので、「プロパガンダ」を受け入れがちです。いずれ自分の頭で考えるようにならない限り、そこから抜け出すことはできません。どっぷり浸かって、そこから抜け出したい、とは思わないかも知れません。