原子力発電所(原発)の話題になると、「脱原発」か「原発推進」(または原発依存)か、という二択になりがちです。大抵「原発の安全」は無視されます、恐ろしいことに。
「原発が止まって、電気が不足して、停電が起こる」ことは、私は何ら心配していません。それが死活問題になる方も大勢いるのでしょうけど、幸い私自身は我慢すれば済みますので。そういう私が心配しているのは、
- 電気が不足して、停電が起こって、燃料棒の冷却ができなくなって、原発がまた爆発すること
...です。そうしないためには例えば、原発冷却専用の火力発電所を建てる、とかの対策が必要。廃炉も結構ですが、それまでの何年だか何十年だかは、あるいはその後までも、冷却し続けなくてはならんのですから。
そもそも「脱原発」は、件の事故の原因を「原発が危険だから」と決めつけたものです。言いだしっぺは多分、本当の原因を作った人。自動車で人を轢いた政治家が、自動車が危険だから、と脱自動車を唱える。包丁で人を刺した政治家が、包丁が危険だから、と脱包丁を唱える。保身のための責任転嫁。
「原発反対を叫べば体裁が良い」から叫んでいる者、皆がそう言っているから仲間外れにならないように真似ている者、自分の頭で考えない者は、脅迫商法に容易く騙されます。「脱原発」然り、「水子の霊」然り、「冬の時代」然り。考えよ。
もっとも、考えても考えなくても、発言や行動の責任は必ず自分で負うのですけどね。なお、無発言も発言の一種、無行動も行動の一種。それが「自由」。「自由」とは理想ではなく、冷酷な現実なのです。後から「そんなつもりじゃなかった」と泣きわめくのが、一番みじめな愚か者。
「生きる」のは、常に「命がけ」。分かりたくなければ「分からない」と言うのも自由。分からなくとも、責任から逃れられやしませんがね。