1月末に、親類一人と、仕事で大変お世話になった方お一人との訃報が、相次いで入りました。前者への弔問、また後者の葬儀等には職場からも手伝いを出すこととなり、通常業務とも並行して、2月に入ってからはそちらに専念しておりました。感謝と共に、心からご冥福をお祈りしております。
恨む心は露ありませんが、その分だけ通常業務が遅れているのも事実。それを取り戻すべく、しばらくは多忙な日々が続きそうです。何とかなるでしょう。何とかしなくては。まぁ何とかならなくとも、何とかはなった内には違いない。兎にも角にも、やるだけ、やるだけ。
そのような言い訳で、卓上RPG論考も宙に浮いたままです。「ゴールデンルール」をあと数回で終えたら、幾つかの小ネタをやって、「鏡理論」のまとめもやりたいのだけど。そろそろ、ある程度はまとめないと、年々仕事が忙しくなってきている、という懸念もありまして...。書ける内に書いておくべきか、と。
触りだけ書いておくと。「遊び方」という概念を使えば、いわゆる「馬場理論」とFEAR社の「ゴールデンルール」とは共存共栄できる、とか。いわゆる「困ったちゃん」という概念は無くなる、とか。あと、「選択肢の多さ」と「自由」とはまったく関係が無い、というよりは、選択肢の多少を云々している時点で、既に自由ではない、とか。私の過去の論考で幾度も言ってきたような、その考察の末に私自身も最近気づいたような。
もしも、このような理屈が「分からない」なら、分かるまで十年でも二十年でも考え続ければ良いのですよ。その手間を惜しんで、「分からない!」などと言い放つだけで考えないことを、「思考停止」と言います。あるいは、悪い意味での「信仰」と。今の自分が信じていること、今のままの自分がすんなり受け入れられること以外には触れたくない、ということですから。
考え続ける、という行為には、楽しさと苦しさとが伴います。苦しさの無いことは「楽」(らく)であって、それは「楽しさ」ではありません。楽しさを知らない者は、しばしば「楽」をそれと思い込みます。もちろん、自分にとって大切で無いこと、重視しないことは「楽」でも構わんでしょう。もっとも、あるものに「楽」を求める者と、同じものに「楽しさ」を求める者とは、往々にして対立するのですが。
例えば、卓上RPGのゲームプレイに「楽」を求める者は、ゲームマスターが「正しい道筋」を用意し、それへ「誘導」してもらうことを期待します。ゲームマスターがそうしなければ、「自分を楽しませなかった」として非難する。キャラクターの行動を「自由に(=自分で)」決めることは、「悩む」という「苦しさ」を伴いますが、「誘導」に従うだけなら「楽」だからです。それもまた、ひとつの「遊び方」ではありますが、他の「遊び方」と混ぜてはいけません。...というのが「鏡理論」ですよ。