Analog Game Studies(AGS)に掲載された下記論考について、私なりの理解を述べます。
- 齋藤路恵「会話型RPGにおけるメタ化」
この論考で齋藤氏は、「メタ化」「(自己)相対化」「ネタ化」「他者化」という四つの視点を取り上げ、各々が「会話型RPG」(私が言うところの卓上RPG)に及ぼす影響について説いています。これら各視点について、私は次のように解釈しました。
- (自己)相対化
- 上記論考では「他の対象との比較により、視点や判断基準の複数化を行うこと」とされる。
- 例えば、あるキャラクターを他のキャラクターと比較して、ゲーム内での行動や台詞を変えること。20歳の「若い」キャラクターであっても、相手が40歳の時と10歳の時とでは接し方が変わる、など。
- 例えば、あるプレイヤーが自分を他のプレイヤーと比較して、プレイの仕方や発言の仕方を変えること。自分よりも経験の浅い者がいるなら、ルール処理などをそのような者にも分かるように行う、など。
- メタ化
- 上記論考では「相対化の一種」「一つ外側の視点から物事を見ること」「これまでとは違った視点が導入される」とされる。
- 例えば、あるキャラクターの設定などを、そのプレイヤーの都合に適うように運用すること。平凡な会社員であっても怪事件に関われるように、性格や趣味、ゲーム内での行動を決める、など。
- 例えば、あるシナリオ内の状況などについて、プレイヤーの知識に基づいて対処すること。キャラクターが敵の正体に気づいていなくとも、その弱点を突く物を別の理由で持たせておく、など。
- ネタ化
- 上記論考では「目的に対して有益な効果を得られないようなメタ化」「メタメタゲームのような悪いメタ化」とされる。
- 例えば、あるゲームプレイにおいて、それに取り組もうとせず、自分が好むRPG論考やリプレイばかりを基準に評価すること。「馬場講座と違うからダメ」「公式リプレイと似ていないからダメ」など。
- 例えば、あるRPG論考やリプレイについて、それを理解しようとせず、他でのゲームプレイ体験や嗜好ばかりを基準に評価すること。「過去のプレイと違うからダメ」「私がつまらないと思うからダメ」など。
- 他者化
- 上記論考では「ある視点に注意が向くことで他の視点が忘れ去られること」「自分に利害関係のない他の視点が切り捨てられること」とされる。
- 例えば、あるキャラクターについて、個性ある人格としてではなく、設定の一部のみを強調した存在として評価すること。「山奥の住人は一度も海を見たことが無いはず」「会社員は会社の奴隷なはず」など。
- 例えば、あるプレイヤーについて、個性ある人格としてではなく、先入観を投射した存在として評価すること。「ホラーRPGの遊び手は悲劇的展開を喜ぶはず」「RPGが好きな者はアニメを好きなはず」など。
さて、斎藤氏は、「ネタ化」と「他者化」との二つを「悪いメタ化」とし、それを避けるように呼びかけています。ここでいう「悪い」とは、ゲームプレイやゲーム論考において無益、むしろ邪魔、あるいは他の参加者を不快にさせる、などの意味です。
「ネタ化」を行う者は、他のプレイヤーと一丸になってゲームプレイに取り組むのでなく、また他の論客と対等に意見を交わすのでなく、他の参加者よりも更に「外」からの視点によって、「内」にあるすべてを評価します。本来の目的にとって不要なほどに「外」に立つことを、「疎外」や「孤立」ではなく、「安全」「優位」と錯覚するようになると、いわゆる「上から目線」で論評するようになります。
「他者化」を行う者は、自分以外のあらゆるものを実際より単純なものとして解釈し、その誤解を発言や行動に反映させ、更には他の参加者にまで押し付けようとします。多くは、想像力や人生経験の不足によるものです。中には、他を単純化することや、解釈を他に強要することを、自分の「優位」の証明と錯覚する者もいて、そういう者はしばしば「上から目線」でそれを主張します。
これら「悪いメタ化」を避けるには、ゲームプレイを楽しむ時にはそのゲームプレイに、論考を語る時にはその論考に、とにかく集中することである、と私は考えます。「理論」と「実践」とは表裏一体ですが、表と裏とは同じ側を向きません。表を見るべき時に裏を見れば、表は見えなくなるのです。
最後に、斎藤氏の論考について批判的に考えたこと。「相対化」の対極に「絶対化」という概念を設けて、様々な「視点」と絡めても面白いのではないか、と。例えば、いわゆる「なりきり」とは「キャラクター視点の絶対化」である、とか。この辺、いずれ気が向いたらまとめてみるかも知れませんが、忘れてしまうかも知れませんが。