「遊び方を選ぶメタ」の例として、「シーン制」について考えてみます。
「シーン制」という用語は、いまだ定義が明確になっていません。そこで私は独自に、「TORG型シーン制」と「FEAR型シーン制」との二つを定義し、それ以前の時空間処理法と比較して考察しています。
ここでは「プレイヤーの中のメタ」に基づいて、各「メタ」の持ち主が二つの「シーン制」のどちらかを選ぶ時、あるいはどちらをも選ばない時、どのような心理が働くか、について記します。
「友人と」あるいは「仲間とゲームを遊ぶメタ」の持ち主は、「遊び方」を軽視します、というか頓着しません。
- 彼らがTORGやヴァンパイア・ザ・マスカレードなどを遊ぶ時には、「TORG型シーン制」を選ぶ。その選択に、大した意味はない。ルールブックなどにそれが示されており、それを無視する理由も無いから、そのように遊ぶのである。そうしなければならないわけではない。
- 彼らがトーキョーNOVA (Revolution以降)やダブルクロスなどを遊ぶ時には、「FEAR型シーン制」を選ぶ。その選択に、大した意味はない。ルールブックなどにそれが示されており、それを無視する理由も無いから、そのように遊ぶのである。そうしなければならないわけではない。
- 彼らがクトゥルフ神話TRPGやソードワールドRPGなどを遊ぶ時には、どちらの「シーン制」をも選ばない。その選択に、大した意味はない。ルールブックなどにそれが示されておらず、それを無視する理由も無いから、そのようには遊ばないのである。そうしなければならないわけではない。
「理想のゲームを遊ぶメタ」の持ち主は、「遊び方」を重視します。
- 彼らがもし、映画や小説のように、劇的な場面が間断なく示されるのを、理想のゲームプレイとするならば、「TORG型シーン制」を選ぶ。それを選択しなければ、理想を実現できないと思うから。もっと良い方法があるならば、検討の余地がある。重要なのは理想の実現であって、方法ではない。
- 彼らがもし、映画や小説のように、劇的な物語が確実に完成されるのを、理想のゲームプレイとするならば、「FEAR型シーン制」を選ぶ。それを選択しなければ、理想を実現できないと思うから。もっと良い方法があるならば、検討の余地がある。重要なのは理想の実現であって、方法ではない。
- 彼らがもし、映画や小説のようであることを、理想的なゲームプレイと無関係とするならば、どちらの「シーン制」をも選ばない。それを選択しない方が、理想を実現できると思うから。より良い方法については、常に検討の余地がある。重要なのは理想の実現であって、方法ではない。
「ゲームで物語を作るメタ」の持ち主は、「TORG型シーン制」か「FEAR制シーン制」かを選ぶでしょう。物語を構築していく過程で、「キャラクターに何をさせるか」をプレイヤーに決めさせたいなら「TORG型」が、「キャラクターに何をさせればよいか」をプレイヤーに伝えたいなら「FEAR型」が適しています。
「私のゲームを遊ぶメタ」の持ち主は、特定の「遊び方」を絶対視します。
- 彼らがもし、「TORG型シーン制」を「正しい遊び方」と信じるならば、それを選ぶ。正しく遊べば、最も楽しく遊んだことになるから。それ以外の「間違った遊び方」では、つまらない思いをするに決まっている。試すどころか、論じるのも時間の無駄である。
- 彼らがもし、「FEAR型シーン制」を「正しい遊び方」と信じるならば、それを選ぶ。正しく遊べば、最も楽しく遊んだことになるから。それ以外の「間違った遊び方」では、つまらない思いをするに決まっている。試すどころか、論じるのも時間の無駄である。
- 彼らがもし、どちらの「シーン制」も「正しい遊び方」ではないと信じるならば、どちらをも選ばない。「シーン制」という「間違った遊び方」では、つまらない思いをするに決まっているから。試すどころか、論じるのも時間の無駄である。
以上の他、「シーン制」以外の時空間管理と「メタ」との関連については、省略します。「ダンジョン」か「ワイルダネス」か「シティ」か、だけで使い分けていた時期もありましたが。
以下、余談。何を「理想のゲームプレイ」とするか、何を「正しい遊び方」と信じるか、などは公式リプレイの影響が大きい、と私は考えております。リプレイを読んだ参加者が、リプレイに倣って遊ぶ、のは自然なこと。もし、その後も同じようなリプレイしか読まず、同じようなゲームプレイしか遊ばなければ、それを「正しい遊び方」と信じてしまうでしょう。良いか悪いかはともかくとして。