「セッション失敗」に関して、私の考察を示します。特に、「失敗すること」や「失敗したくないこと」ではなく、「失敗しちゃいけないと思うこと」「失敗に恐怖を感じること」について。
参考にしたのは、B.W.さんの「大失敗に学ぶ」や「いつ、どこでなら失敗してもいいですか?」を発端とする、紙魚砂さんとxenothさんとの議論。
- 紙魚砂「失敗しちゃいけない環境って何それ?:(^^;」
- xenoth「失敗しちゃいけない環境とゴールデンルール」
- xenoth「シーン制の源流」
- 紙魚砂「いちおうつっこみ:(^^;」
御二方の記事はその後も継続していますが、追いつけていませんので、そちらは省きます。御容赦。
まず、私なりの理解。紙魚砂さんとxenothさんとは、次の一点については合意されています。
- ゲームマスターはどんどん「セッション失敗」して良い。「セッション失敗」の責任はプレイヤーにもある。
対立しているように見えるのが次の点。
- 紙魚砂 : 「セッション成功」「セッション失敗」はFEAR社が導入した概念である。「ゴールデンルール」や「シーン制」などが「セッション失敗」を回避する負担をゲームマスターに与えている。
- xenoth : 「セッション失敗しちゃいけない」という考え方はFEAR社以前からあった。「ゴールデンルール」や「シーン制」などは「セッション失敗」を回避するための工夫である。
勝手ながら一部書き換えれば、双方の意見を繋げることができます。
- 「セッション成功」「セッション失敗」は、概念として以前からあったが、FEAR社が明文化することで公認し、結果的にその影響が著しく増大した。
- 「ゴールデンルール」や「シーン制」を(正しく)使うと「セッション失敗」を回避できるので、「(正しく)使わなくてはならない」という負担をゲームマスターに与えている。
さて、ここからは私の考察。失敗しちゃいけないと思い、失敗に恐怖を感じる、名付けて「セッション失敗恐怖症」について。
紙魚砂さんやxenothさんもそうだと思いますが、失敗を恐れない者、失敗が平気な者とは、自分に本質的な信頼感を持っている者、つまり自信がある者です。それを鍛え上げるのは、現実世界での「成功体験」や「失敗体験」です。成功できる自分、失敗しても平気な自分を知っておけば、「成功したい」「失敗したくない」とは感じても、「成功しなくちゃだめだ」「失敗したらお終いだ」と恐怖することはありません。
卓上RPGで「セッション失敗」を恐怖するようになる背景として、次のような要因が考えられます。なお、2と3は補強要因であって、1さえ無ければ関係を持ちません。
- 現実生活における「成功体験」や「失敗体験」の致命的な不足。(しばしば自我肥大をも引き起こす)
- リプレイによる「擬似成功体験」の過剰。(古い話で恐縮ですが、今考えると「MUミユキ」は貴重だった)
- FEAR社による「セッション成功」と「セッション失敗」の公認。
失敗を知らないほどに失敗への恐怖は増しますから、「セッション失敗」の定義が曖昧なことも拙かったかも知れません。「セッション成功」は「プレイに参加した皆が楽しむこと」と認識されていますが、それ以外はすべて「セッション失敗」なのか?どうやって「楽しめた」か否かを伝えるのか?一人だけが「楽しめなかった」場合はどちらか?などが不明瞭。曖昧なのは多分、そのような影響がFEAR社にとって想定外だったせいでしょうけど。
以上、第三者的に好き勝手なことを書いてみました。
最後に、本音をひとつ。自分の意志で一定時間遊んでおきながら、後から「つまらなかった」だの「失敗した」だのと言うことが、そもそも異常ですよ。そういうのは遊びじゃなくて、「ノルマ」としてゲームやってるんじゃなかろうか。自分はゲーマーだから、週末はゲームやらなくちゃいけない!とかでね。ちなみに「ノルマ」というのは課せられた労働量のことですから、「何をすれば良いのか」は誰かが与えなくてはならず、時間通りに終わらないと怒られます。