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- 察する心 (xenothの日記)
ダンジョンに入るか否か等のシナリオ設定から、突如「嫌悪感を与える描写」に話題が変わって、実のところ困惑しました。果たして同列に論じて良いこ問題なのか?と、じっくり考えてみましたが...。
同列に論じて良い問題ですね。「察する心」については後述するとして、まずはお返事。
GMが卓でグロ描写や性描写を延々初めて、それが自分は苦手な場合とかはどうでしょう。
GMが一方的にヒドイGMの場合もありますが、そうでないこともあります。
例えば恐怖RPGや戦争なんかを扱ったRPGは、人によって向き不向きがあります。セッションに必要な程度の常識的な描写であっても、つらいと感じる方が出ることがあります。そういう問題は卓に入るまでに解決しておくのが理想ですが、入ってから気づいちゃう場合もあります。
そういう不運な巡り合わせで、そのことをうまく言い出せず、泣き出すプレイヤー、吐くプレイヤーというのもいます。
そういう風な場合でも、なんら不快/苦痛であるという意志表示をするべきでないのですか?
すべきか、すべきでないか、という問題ではありません。「つまらない」「不快/苦痛だ」といった意志表示がされた場合は「セッション失敗」となる、というだけのことです。ちなみに、「泣き出す」「吐く」というのも意志表示です。
「管理して遊ぶゲームプレイ」のシナリオでは、ゲームマスターが定めた「最も面白い展開」に合わせて、ハンドアウトや今回予告、各シーンの内容や描写などが設定されます。ゲームマスターが「最も面白い」という想いを込め、他のプレイヤーもそれを受け入れて楽しんでいる、そのようなゲームプレイに対して「私は不快/苦痛である」つまり「私はつまらないと思う」という意見を突き付けるのです。ゲームマスターはアドリブで修正しようと試みるかもしれませんが、自分が「最も面白い」と思うことを否定された不満は残るでしょうし、再開後もそのプレイヤーが気になって他のプレイヤー共々心から楽しむことなどできますまい。そもそも件のプレイヤーも、そうと「察する」からこそ「うまく言い出せない」のではないか、と「察する」ことができます。
...私の正直な意見としては、本当に嫌なら「私はつまらない」とはっきり言えば良い、と思います。「セッション成功」なんてものは、場をうまく治めるための共同幻想に過ぎません。「皆が楽しいと思う」というのは誰にも認識できませんから、「つまらないと誰も言わない」ことでそれと見なしているのが現実。それ故「ネガティブな意見」が忌避され、「反省会」が「セッション失敗」の温床と嫌われるわけですが、平然と「セッション失敗」できる方が余計なプレッシャーに苦しまなくて済みます。
さて、「察する心」の件。「相手の心を察しよう、と心掛ける」のは善良な行為で、xenothさんは善人なのだろうなぁ、と思いました。しかしながら、「相手の心を察することが、私にはできる」とまで言ってしまうと、「私の心をあなたは察して当然だ」という傲慢にも繋がります。注意が必要です。
「相手の心を察する」という、顔色や声色などから相手の心理を読み取る過程には、自分の先入観や願望が入り込みます。悪印象の相手よりも好印象の相手の心理を読み取ろうとしますし、その心理も、自分にとって都合の良い部分が強調されるか、都合の良いように解釈されます。例えば、私のような中年男であれば、むくつけき男どもが楽しんでいる中で女の子が一人眉をひそめている場合と、楽しそうな女の子たちの中で一人不愉快そうな野郎がいる場合とでは、「察するメッセージ」というよりは「察したいメッセージ」が変わります。こういう変化は、もちろん個人差はあれど、誰にでもあることです。
私は「察する心」をこのように考えますので、それはそれで大切とは思いますが、当てにしてはならない代物でもある、と判断します。むしろ、言語によるコミュニケーションを頼りとすべきでしょう。そこには「嘘」もありえますが、言われたことだけで考えた方が、間違いは少なくて済みますから。