おそらくトラックバック障害のため気付かなかった、xenothさんからの問いにお答えします。遅くなりましたことをお詫び申し上げます。
- TRPGの面白さについて物思う (xenothの日記)
- 再び、TRPGの自由について、ものおもう&鏡さんへの質問 (xenothの日記)
「TRPGの面白さについて物思う」について。
事前の目標が事後評価を抑圧する好例は、「セッション成功」のために「反省会」をすべきでない、という意見に見られます。「反省会」で「つまらなかった」などと「ネガティブな意見」が出されると「セッション成功」即ち「皆が楽しむこと」が否定される、という理屈です。反対意見が無ければ満場一致で賛成、とも。
そこまで明言しなくとも、他の参加者が「面白かった」と喜んでいる前で「いや、私はつまらなかった」とは言えない者もいます。「場の空気」というヤツで、「皆が楽しむことが大切だ」と連呼することで強化されます。ゲームデザイナーへの信心篤い者は少数派で、多いのはゲームデザイナーの言う通りにしておけば安心だという者でしょう。
余談ですが、「自分」よりも「皆」を大切にすることは、「会社のために」や「御国のために」など、基本的に善良な心理です。ただ、これと「場の空気」が絡むと、人々は簡単に操作されてしまうことがあります。プロパガンダが力を持つのは、そのような場において、です。
次に、ゲームマスターなどが他の参加者にストーリーを押しつけることについて。その「ストーリー」が背景設定でなく、キャラクターの行為の集大成としてなら、それを「押しつける」のは「管理」下でなければ成立しない、と考えます。「自由」なら、あちらの「あちらが面白いと思う」ことに対して、こちらも「こちらが面白いと思う」ことで応えるのですから。自分が面白いと思うことをする、ということは、自分がするのであって、相手にさせることではありません。吟遊詩人マスターなどはその「自由」を奪おうとするでしょうが。
将棋の喩えの件。わざと負ける「自由」は誰にでもあります。その「自由」を認めるか否か、怒るか否かなどは、将棋盤を挟んだ相手の「自由」です。その「自由」を阻むには、誰か(例えば審判)が一手一手を「管理」することです。
「再び、TRPGの自由について、ものおもう&鏡さんへの質問」へのお返事。
> ルールを守り、デザイナーの指針を熟読し、GMの誘導に従う、
> というのも、それが当人の決断であれば、「管理」ではなくて
> 「自由」ということで良いでしょうか?
その過程および結果について責任を自分で負うなら、ルールやデザイナーやGMに責任を求めないなら、それは「自由」な行為です。例えば、「クソゲー」「ダメGM」などと評してはいけません。私はそう考えます。