前回の続き。厳密には、論考だけでは役に立たない、ということですけど。
論考とは、その論者の考察を、不完全ながら文章化したものです。その背景には必ず、論者その人の実践経験が存在します。(何らの経験も無しに論考を書けるような天才は、いたとしても私の想像を超えているので、考慮に入れません。)
論考の読者は、その論者(=他者)の経験や考察を、やはり不完全ながら、知ることができます。知ったというだけで、それを活用できるわけではありません。他者の経験と考察を活かすためは、自分自身の経験を礎としての考察が、そして大抵は試行錯誤も必要です。
考察によって、自分の過去の経験と考察に、他者の経験と考察を影響させることができた時、それらを次の実践に活かすことができるのです。もちろん、活かしたからといって、すぐに良い効果が得られるとも限りません。多くの場合、幾度もの試行錯誤は避けられません。その過程に耐えられず、挫折することもあるでしょう。「役に立つ」までの道は、必ずしも平坦ではありません。
何を言っているのか分からん、という方のために、野球で喩えます。ホームラン王が書いた打撃理論を読んだからと言って、誰もがホームラン王になれるわけではありません。さて、そのような打撃理論は「役に立つ」のでしょうか、「役に立たない」のでしょうか?
要は、「役に立つ論考」などというものは無い、ということです。そのように錯覚することはありえますけど。「論考が役に立つ可能性」は常にありますが、混同してはいけません。