管理は評価から生まれる

xenothさんからトラックバックをいただきました。有難うございます。

xenothさんの論考は、まさに「管理」の背景にある発想、「管理」を生み出す考え方であろう、と私は考えました。即ち、「面白いゲームプレイをやりたい」「つまらないゲームプレイはやりたくない」という欲求こそが「管理」を求めるのです。以下、その辺をつらつらと。

卓上RPGにおける「管理」は、まずゲームプレイを「面白い」ものと「つまらない」ものとに分けるところから始まります。この両極端な評価は、実際に行ったゲームプレイへの事後評価というよりも、むしろゲームプレイ以前に目標として想定されます。そして、誰もが思い願うのです。「面白いゲームプレイ」が良い、ぜひやりたい、「つまらないゲームプレイ」は嫌だ、決してやりたくない、と。

次いで問います。「つまらないゲームプレイ」を避け、「面白いゲームプレイ」を得るために、「私はどうすれば良いのか?」と。その問いかけに、「君はこうしたいはずだ、こうしなくてはならない、こうしなさい」と答える者が、「管理する者」となります。従う者が「管理される者」です。前者に後者が従えば、そこに「面白いゲームプレイ」が成立するのです。

それは本当に「面白い」の?…などと考えてはいけません。従えば、結果は「面白いゲームプレイ」となるのですから。自分勝手なことをしてはいけません。その結果を誰かが「つまらない」と評価したら取り返しがつかないでしょう?そんな我儘はやめなさい。

片や、卓上RPGを「自由」に遊ぶ場合には、「面白いゲームプレイ」なるものも「つまらないゲームプレイ」とされるものもありません。参加者各々が、自分で「面白い」と思うことを、「私はこうしたい、こうすべきだ、こうしよう」と自分で判断して、やる(キャラクターにやらせる)。その積み重ねが「ゲームプレイ」。ただの「ゲームプレイ」。

それは「面白い」の?…そんなことは自分で面倒を見なさい。あなたの行動は「何をやってもいい」のだから、あなたが「面白い」と思うようにやりなさい。結果が何であれ、その過程は「面白い」はずです。

さて、私は幸いどちらの体験もあり、どちらの面白さをも知っています。しかしながら片方しか知らない者は、もう片方を理解できないかも知れません。ひとつしかない発想は、しばしば「常識」や「真理」と化してしまいますから。

以下、余談。

xenothさんが仰る通り、井上純弌氏がシナリオクラフトで実現しようとした「自由」が、端から「準備しなくていい自由」のみであったかも知れません。私の語彙ではそれを「自由」とは言い難いのですが、ひょっとしたら井上氏にとっての「自由」とは「何もしなくていい、楽ができる状態」という意味なのでしょうかねぇ。

将棋の喩え。「ルールの通りに駒を動かす自由」がある、というより、「ルールが示す制限の中で自由に駒を動かせる」と言った方が私の考える「自由」に近いと思います。その場合でも、「勝つため」の定石通りに駒を動かせ、勝手なことはするな、と「管理」される場合もあるでしょう。

「自由」も「管理」も、どちらも「善」でも「悪」でもありませんね。「自由」を「善」だと思う者は「自由」の本性を知らず、「悪」だと思う者は「管理」を正当化したいだけ。どちらも甘えの表れであることは同じですが。

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