ようやく、卓上RPGの話です。
卓上RPGを「自由」に遊ぶとは、ゲーム参加者が皆、「私はこうしたい、こうすべきだ、こうしよう」といった「自分の決断」によってゲームプレイに関与し、それがそのまま過程や結果に活かされることです。ここでいうゲーム参加者にはゲームデザイナーも含まれ、三通りの「自由」が共存することとなります。
- ルールシステムや世界設定の設計は、ゲームデザイナーの「自由」である。
- 非プレイヤー用キャラクター(NPC)の行動などシナリオ運用は、ゲームマスターの「自由」である。
- プレイヤー用キャラクター(PC)の行動は、それを担当する各プレイヤーの「自由」である。
ルールシステムや世界設定を設計するゲームデザイナーの「自由」を、ゲームマスターやプレイヤーは尊重しなくてはなりません。例えば、サイコロの出目を誤魔化すことは、ルールシステムを設計したゲームデザイナーの「決断」を侵すことになります。ただし、ルールブック上に明示されていない部分を補ったり、明示されているものを使ってどのように遊ぶかは、ゲームマスターやプレイヤーの「自由」です。ゲームデザイナーもまた、彼らの「決断」を尊重しなくてはならないのです。
シナリオを運用するゲームマスターの「自由」を、プレイヤーは尊重しなくてはなりません。どのようなシナリオを用意し運用するかはゲームマスターの「決断」に基づきますから、それを尊重するプレイヤーは自分が担当するPCをそれに参加させるように努めなくてはなりません。その代わり、シナリオに参加している限り、PCがどのような行動を取るかは、プレイヤーの「自由」です。たとえそれがシナリオを根底からひっくり返すものであっても、ゲームマスターはプレイヤーの「決断」を優先しなくてはなりません。ひっくり返すべきなら、ひっくり返すのが、ゲームマスターの勤めなのです。
NPCの行動はゲームマスターの、PCの行動はプレイヤーの「決断」によるものですから、本人以外の者がそれを曲げたり、止めさせたりすることはできません。ついでにいうと一度「決断」された行動は、その本人でも止めることはできません。干渉したければ、それも自分のキャラクターの行動として「決断」しなくてはならないのです。プレイヤーとして口を出すのではなく、キャラクターとして手を出すわけで、まさに「案ずるより生むが易し」。行動と行動の応酬が、ゲームプレイを創り上げていくのです。
このように三者の「自由」は相互に影響を与え合うため、「自由」と「自由」との間にしばしば意外な展開を生じ、そして誰も予期せぬ結果に辿り着きます。誰にも予測できない顛末だったとしても、それが参加者の誰一人欠けても生まれ得なかったものならば、それは紛れもなく全員による共同創作の賜物です。そして創造する「自由」に対して負う「責任」とは、被造物をありのまま受け入れる悦びに他なりません。
これが、誰にも「管理」できない、「自由」な卓上RPGの姿です。