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紙魚砂さんとアキトさんのお考えを伺うに、なるほど「反省会」についての認識には差異があるようですね。

ここで私の考えもまとめておきます。「成功も失敗も無いセッション」における反省会についても後述します。

まず「反省」の語義は、「自分の今までの言動・あり方について、可否を考えてみること」(三省堂新明解国語辞典)、「自己の過去の言動についての可否・善悪などを考えること」(小学館国語大辞典)などです。対象が「自分」であること、悪い面ばかりでなく良い面も扱うこと、この二点が特徴です。「反省」によって可否・善悪を知っておけば、先々「自分」の悪い面を抑え、良い面は一層伸ばすことができます。そうすることで利益を得るのは、他の誰よりも「自分」です。

「反省会」では、対象が「自分」から「自分たち」即ち「仲間」となります。自分ひとりではなく、仲間の言動についても語ることになりますが、それは自分一人では気付けない可否・善悪を異なる視点から指摘してもらうためです。特に否や悪について指摘するのを私は「殴る」ことに喩えますが、本当は互いに「殴ってもらう」のであって、そうであるから「殴り合い」が成立するのです。利益を得るのは「仲間」に属する全ての「自分」です。

このように「反省」では「私の言動のどこが良かったか」「私の言動のどこが悪かったか」を問います。その認識を元に、「私がどうすれば、より良くできるか」を考えるためです。「反省会」ではそれらに加えて、「あなたが見逃している良さはここだ」「あなたが見逃している悪さはここだ」と指摘し合います。それをも踏まえて、各々が「私がどうすれば、より良くできるか」を考えるのです。

「反省」でも「反省会」でも、明確な改善方法の発見にまで至らないことがしばしばあります。しかし「反省」による言動の整理は、それ自体に既に改善効果があります。また「反省会」は、多様な視点が得られる上、認識を共有することに大きな改善効果があるため、一人だけでの「反省」よりも更に有益です。

ところで、「他人」の「否」ばかり追及し、しかもそれを相手のみの問題として断じることは、「反省」ではなく「糾弾」と言います。名前だけ「反省会」で、実態は「糾弾会」ということもあるようです。しかしながら、力を合わせて何かを成し遂げた者、例えば卓上RPGを一緒に遊んだ者の間での「糾弾」は、責任転嫁でしかありません。「反省会」なら全員が各々「反省」しなくてはなりません。

最後に、可否・善悪を判断する基準について。「ミッション成功」即ち「シナリオの目的を(より良い形で)成功させること」を目指すプレイでは、「成功に寄与したか否か」「どの程度大きく寄与したか」が問われます。「私がこうすれば、(より良く)成功できただろう」という答えを求めるためです。一方「成功の無い」主観的な面白さのみを求めるプレイでは、「面白かったか否か」「どの程度面白かったか」が判断基準となります。「私がこうすれば、より面白くできただろう」という答えは自分で探すものですが、たとえ感性や嗜好が異なる他の参加者からの指摘であってもその参考にはなるでしょう。ならないこともありますが。

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卓上RPGを考える
反省会を語る
卓上RPGで遊んだ後、「反省会」という時間を設けることがあります。このカテゴリーでは、「反省会」についての私の考え方、やり方を示してまいります。
(2007年05月14日 21:57)