第二の余論は心理学。素人の生兵法なりに、「殴り合うコミュニケーション」の背景心理について考えてみます。詳しい方からのご意見を大歓迎。
結論は、「殴り合う」ためには自己肯定が必要で、自己否定そして「自我肥大」に陥った者には難しい、ということです。
第二の余論は心理学。素人の生兵法なりに、「殴り合うコミュニケーション」の背景心理について考えてみます。詳しい方からのご意見を大歓迎。
結論は、「殴り合う」ためには自己肯定が必要で、自己否定そして「自我肥大」に陥った者には難しい、ということです。
紙魚砂さんとアキトさんのお考えを伺うに、なるほど「反省会」についての認識には差異があるようですね。
ここで私の考えもまとめておきます。「成功も失敗も無いセッション」における反省会についても後述します。
アキトさんのお返事に感謝します。ひとつ気長にお付き合い願います。
まず「できる/できない」について、私の考えを示し直します。ややこしいですけれど。
ここからは余談ならぬ余論です。三本組の予定。
聖徳太子の憲法十七条は、「和をもって貴しとなす」から始まります。日本人なら誰もがこの文句を知っているでしょうから、「殴り合う」などとんでもない、と思われる方がいるかも知れません。第一の余論として、この条文が「殴り合うコミュニケーション」を否定するものなのか、考えてみます。
「うすくちゲーマのTRPGラクガキ帖」のアキトさんからトラックバックをいただきました。有難うございます。
結論から言うと私は、やるかやらないかだけが重要、と考えております。やらない間はできるかできないかは決して証明されず、しかし一回でもやれば、できることは明白になるのですから。以下は各論。
自分の正直な意見を示し、異なる意見と闘わせることが、「殴り合うコミュニケーション」です。「殴り合う人々」はそれを楽しみ、「殴り合わない人々」は忌避します。卓上RPGのような遊戯についてであっても、それは変わりません。卓上RPGに関する論考や議論などを巡って、「殴り合う人々」と「殴り合わない人々」との姿勢の違いは、三つの点で明確に表れます。