「殴り合う人々」は日々気軽に「殴り合う」のに、「殴り合わない人々」はそうではありません。知識の差、後者が議論やケンカ(口喧嘩)などの「殴り合うコミュニケーション」をまったく知らないため、とは考えられません。現実に社会はそれらで満ちており、様々なメディアがそれを知らしめているのですから、仮にあったとしても至極稀でしょう。「殴り合う」ことを知ってはいるけれど、自分の行動としてそれを選択しないわけです。
まず、「殴り合わない人々」の立場から、そういう行動を選ばない理由を考えてみます。
- 自分一人の自由勝手で相手を不快にさせるのは、悪いことである。むしろ自分を犠牲にしてでも相手を快くさせる方が良い。
- やらないのは、今までする必要が無かったからである。仮に必要になったとしても、もっと優れた方法で解決できるだろう。
- やれというなら、悪い結果を避け、良い結果のみ得られるような、正しい方法を示すべきである。
- 自分が正しくやったとしても、相手が逆上するかも知れない。そのような危険は冒せない。
- やりたくとも、それに相応しい相手と機会とが無い。それらが揃うまでは、待ち続けるしかない。
「やらない理由」はこんなところでしょうか。どれにも一理はありますから、それらを妥当と信じる限り、「殴り合う」ことはありません。
次に、これらの理由に対して「殴り合う人々」がどう反応するか、私なりに記してみます。
- 自己犠牲を演じて気分が良いのは、被害者面した本人だけ。かえって相手を貶めることになる。
- 今までは相手があなたに合わせてくれていたのかも知れない。何にせよ、必要があってするのではなく、やりたいからやるだけのこと。
- 正しい方法とは、唯一の正解が定まっている時の道順である。それがある方が稀なことで、大抵の場合そのどちらも無い。
- 危険や失敗を受け入れて、はじめて成功がありうる。むしろ、多少の冒険が無ければ、やりがいが無い。
- 相手も機会も、待っていて与えられるものではない。目前にいる者をその相手、時々刻々をその機会とし、積極的に行動する他は無い。
以上は、反論であると共に、「やる理由」でもあります。
さて、「やる理由」を説いたからといって、相手の「やらない理由」を曲げさせることはまずできませんし、逆もまた然りです。しかしながら、双方の理屈を知っておくのは悪いことではありますまい。相対する立場、多様な意見を知っておけば、自分の行動選択にも柔軟性を加えられるのですから。これも「殴り合うコミュニケーション」の良いところであり、「殴り合う」理由のひとつと言えます。